前回に引き続き、パート③ ジャニーさんと戦争のおはなし
(ナレーション)ジャニー喜多川さんのキャラクターは日本とアメリカの二つの祖国ではぐくまれてきたものです。生まれたのはアメリカロサンゼルス。1931年、昭和6年のことでした。ご両親はともに日本人ですが、布教のためにアメリカに渡っていました。しかし、太平洋戦争が勃発し、10歳を過ぎたころ、父親の故郷である和歌山に身を寄せます。数年後の昭和20年(1945年)、戦争末期にあった空襲が今でも忘れられない体験だと言います。ジャニーさんが空襲に巻き込まれたのは、偶然の出来事がきっかけでした。
(ジャニーさん)僕は、和歌山新宮~勝浦のあたりに僕のおじいちゃんがいたんですよ。そこに島を持っていて、その島で温泉を経営してるわけですよね。そこで生活したんですよ、戦争中は。そこでちょうど夏休みかなんかで、大阪の方へ遊びに行ったんですよ。それでその帰りに自分の家に帰るつもりで和歌山を通って国へ帰ろうと思ったら、昼間の2時15分が最終便なんですよ。それに間に合うように南海電車に乗って行ったんですけど、切符がないわけなんですよ。証明書を学校が出してくれて、それにサインして渡すと切符が買えるわけですよ。その時に、「これはインチキだ」と駅員が言い出して、なんでかというと「インクがまだ濡れてる」からだと言うんですよ。(インクが濡れてるから)今作ったばっかりだと。そりゃそうですよ、サインはその場で書くんだから。でもそんなこと言うと(インチキじゃないと説明しようとしても)子供だからバカにして相手にしてくれない。そうこうしてるうちに、汽車が出ちゃったんですよ。それで僕は駅長室に行ってに文句言ったんですよ。「冗談じゃないよ」って1便しかないのに、明日まで待ってもいつ帰れるか分からないと。そんなこと言ってもしょうがないから、和歌山市駅の前で旅館を探して、ちょうど真ん前の角に旅館があって、そこの2階が空いてたたんですよ。それで旅館の2階(の部屋)を借りて。それでそうこうしているうちに、その夜に空襲警報があって…。
(ナレーション)ジャニーさんが空襲に合ったのは、和歌山市内。アメリカで生まれ育った自分が、アメリカ軍の攻撃を受けていることに割り切れない思いを抱いたと言います。
(ジャニーさん)空襲警報の時に、駅のあたりは焼夷弾でばばばばばーんとやられちゃったんですよ。僕は焼夷弾から逃げるのに必死だったんですけど、(なんとかして)和歌山城の方へ逃げたんですよ。兵隊さんみたいな人が1人来て、「坊や、だめだめ」って、そうじゃないな(関西だから)「アカンアカン」って笑。子供だから何が何だかさっぱりわかんないんですよ。それで、「和歌山城の逆の方へ走れ」って言うんですよ。でもガードみたいなのがこんなにあってね、それを越えてるときに焼夷弾がばかぼこ堕ちるんですよね。そこを潜り抜けてだーっと、とりあえず紀ノ川の方へ走ったんわけですよ。紀ノ川ということも初めてだから(和歌山に馴染みがないから)わかんないわけですよ、誰もいないところを紀ノ川のう方へ向かって、兵隊さんの言う通り紀ノ川へ走ったわけですよ。和歌山城まで行くのにすごい距離があるんですけど、人の死体がいっぱいで、みんなもう(亡くなっていて)。そこで和歌山の大空襲にあったという経験があるわけですよね。アメリカにいるはずの僕が、なんで一生のうちに一回しかない空襲に合ったか。そういうことが多いんですよ僕の人生。和歌山空襲ってのは1回だけですからね。そういう運命だったんですよ。怖い世界を歩き回って来たんですよね。
(筆者感想)この辺りのストーリーは舞台『少年たち』にも出てきますね。「そういうことが多い」とは、ジャニーさんが当初「日航機墜落事故」の飛行機に乗る予定だったということを指しているのかな?と考えています。
(ナレーション)終戦後、ジャニーさんはアメリカロサンゼルスに戻り、その何年か後に始まった音楽番組「Perry Como Show」をよく見ていたと言います。歌手でありながら番組の進行もこなすエンターティナーPerry Comoの声が大好きだったそうで、彼の曲なら全て好きだとか。その番組を見ていたちょうどそのころ、ジャニーさんが芸能人に接したいわば原風景となる体験をすることになります。その話はまた後程。まずは曲をお聞きいたしましょう。Perry Comoで「Papa Loves Mambo」
(筆者補足)ジャニーさんは戦後、またアメリカに戻り高校・大学をロスで過ごします。
(ジャニーさん)学生時代からずっと音楽専攻。ステージングからアカペラのコーラス隊、切符切りに至るまで様々な勉強をしましたね。だから、あの頃の名作ミュージカルは百二十パーセント見ているという自信がありますよ。初演前のオフブロードウェイを、わざわざフィラデルフィアまで観に行ったこともある
引用:産業としての「ジャニーズ」を科学する
昔ジャニワの時に、ちびっ子ジュニアに切符切り(入場スタンプ押)をさせたり、ジュニアの子に先輩の早替えを手伝わせたりしますが、これはジャニーさんが学生時代に学んだことをジュニアへ伝えているということだと考えています。
(ナレーション)終戦後、ジャニーさんはアメリカロサンゼルスに戻り、現地の高校に通い始めます。その数年後、歌手の美空ひばり、笠置シズ子といった日本からアメリカ公演に来た芸能人と接したことが、芸能生活に関わった始まりだと言います。
(ジャニーさん)終戦後またアメリカに戻りますよね。アメリカに戻った時に、うちの親父がロサンゼルスで牧師さんだったので、その教会があるわけですよ。それが終戦後、その教会を利用して日本の美空ひばりちゃんとか田中絹代さんとか勝太郎さん、京マチ子さんとか、いろんな人がうちの教会を使って(公演した)、劇場がないもんですから、終戦後来たわけですよ、どんどん。それが、その頃は1950年だとおもいます。それからぼんぼんぼんぼん来て、一番最初に来たのは田中絹代さん。
(蜷川幸雄)そうですね、アメリカ帰りがちょっと有名になりましたもんね。
(ジャニーさん)そうです。「ハロー」っていってね。(笑)
(蜷川幸雄)投げキスして降りてきたりとかね
(ナレーション)ジャニーさんは日本からアメリカに来た芸能人たちが、ロサンゼルスで講演を行う際、通訳を含め色々お手伝いをしたそうです。その時、はるばる海を渡ってきた芸能人たちの力になろうと、自分の利益は考えなかったと言います。
(ジャニーさん)その時にやっぱり我々がお手伝いしないと、アメリカに来た意味がないんですよね。わけもわかんなくね、ドルも貰えないし、そのころぜんぜんもう、アメリカに来るだけのギャラですよね、言い換えればそんなもんだったんですよ。1950年のときですよ。アメリカに行くってことだけで大変だったんですよ。宮武さんていう写真屋さんがあるんだけど、そのと「アメリカに日本人が来たら、うちら最高に何か(協力できること)やろうね」と話していたことがあるんですよね。僕も子供だったから、(芸能人の方の写真を撮って)1枚50セントで会場で売るわけですよ。飛ぶように売れたわけですよ。それを芸能人の人に「はい、これ売上」って渡したら、「いやーそんなの1銭も貰えない」とみなさんおっしゃる。これは、僕が貰うわけにいかない、これはあなたたちの肖像権で買った売上だ、お金だということで(受け取ってもらって)。1枚50セントだけど3枚なら1ドルで売れたわけですよ。だから、子供のころからそういう仕事をしているわけですよ。自分のところの劇場で。無理やり(お金)持って帰ってもらったんですよね。あなたたちの写真でしょ。大変な価値があるんですよねって。
(筆者補足)ジャニーズが肖像権にうるさいのは、このあたりの考えが根底にあるからだと言われています。
(ナレーション)ジャニーさんが、ロサンゼルスから日本に帰国したのち1962年頃に30歳を過ぎてから映画「ウエストサイドストーリー」と出会います。
(蜷川幸雄)ジャニーさんは、一番初め自分の事務所というか、タレントたくさん集めてやろう思ったのはいくつぐらいですか?
(ジャニーさん)たくさん集めようとは思わなかったけど、一番最初あれを観に行ったんですよ「ウエストサイドストーリー」を、銀座に。それを観に行ったときに「うわぁかっこいいな」って。その時に「オレもこういうのをやりたいな」と思った。ふと横を見たら日劇があるんですよ。日劇のダンサーなわけ。あれは何だろうと思ってねぇ。50人ぐらいの男の子で、こんなにかっこよく踊れるの。ウエストサイド観たすぐ後ですけどね。っていうことでみんな集めて
(蜷川幸雄)募集したんですか?
(ジャニーさん)いや、みんな集めて、その中にうちの子役の子もいて。いずれにしろ子役の子はすぐ終わっちゃうんですよ。だから芸をつけないといけないってことで、みんなで集まってやったんだけど。やっぱり、忙しい売れっ子ばっかりだから、みんな次から次から辞めていくんですよ。そこで残ったのが何にもやっていないジャニーズになったわけですよ。
(ナレーション)ジャニーさんに事務所を立ち上げる決意をさせた映画「ウエストサイドストーリー」その中でも一番好きなのは「COOL」という曲なのだそうです。ダンス曲としても最高なのだと説明してくださる表情はまさに真剣。本当に好きなんだという思いが伝わってきます。この曲がなければジャニーズ事務所を立ち上げることはなかったかもしれませんね。映画「ウエストサイドストーリー」から「COOL」
(ナレーション)ジャニーズ事務所が立ち上がり、いよいよ芸能界へ参戦。そこからジャニーさんのスター育成が始まります。ジャニーさんがアイドルを育てる上での哲学とは?
(ジャニーさん)アイドル作りって人間作りですよね。人間作りは難しいと思う。それだけにやりがいがある。
(蜷川幸雄)いい子とだと思って取ったら、残しといたら、ちっとも成長しない子もいるでしょ?
(ジャニーさん)いない!!
(蜷川幸雄)いない?えぇ!?
(ジャニーさん)ご存じのように、30年も50年もやってるけど、僕は失敗はないと思うよ。やっぱり人間を扱ってるから。それは間違いないですよ
(蜷川幸雄)やっぱり人間を見るときに、ジャニーさんどの辺を見る?
(ジャニーさん)どの子だってみんな人間の美しさとかがあるんですよ、それ相応に。おこがましい言い方だけど
(蜷川幸雄)あっそう
(ジャニーさん)そりゃそうですよ、人間の子だもん。だから、うちは、あの子たち今の子たちは絶対それを受け継いでくれると思うけど、でも大切なことですよね
(蜷川幸雄)どっちかっというと捻くれている子がいいわけ、僕はね。問題児がいいんですよね。なんか、元ヤンキーじゃないけど
(筆者補足)前半部分は、2019年の舞台『少年たち』で「ジャニーさんの声の挿入」で使われていた部分だと思います。
(ナレーション)蜷川さんの印象に残ってるのは俳優の藤原竜也さんだと言います
(蜷川幸雄)藤原くんなんて中学生なのに眉毛反り上げていましたからね。山に(地方に)住みながら。
(ナレーション)蜷川さんは俳優を育てるとき、気づいたことは事細かに指導すると言います。
(蜷川幸雄)後は厳しいダメ出しですよね。僕もあと何年いい仕事できるか分からないから、今のうちに細かくやろうと思って、ここ何本かすごく細かいですね全員に対して。みんな若返ったって喜んでますけどね。それは大スターだからと言って容赦なくダメ出しはする
(ナレーション)スター育成についてジャニーさん独自の哲学がある一方、若手に接するとき譲れないポリシーもあるようです。
(ジャニーさん)理屈っぽいジジイみたいなことは言わないですけどね、かっこよく生きたいから。「お前らねー、俺が若いころはねー」とかは言わないですよ、絶対。絶対昔の話はしないですよ。当然みんなそんな話聞いたことないですよ。伝えたいことは今現実にいろいろやってる、これが伝えたいことですよね。でも自分の言葉で伝えたってしょうがないですよ。なんで戦争から生き残ったのがオレかなんかな関係ないよね。自分が事実を知っているからこそ、いかにそれを説得するか、教えるかって考えられないもんね。僕は自分の作品を作るので精一杯。だからおつりがないんですよね、全然。貰いっぱなしで。
(筆者感想)思いは全て作品に詰め込んでるということですかね?だからあんなにトンチキに笑 思いが詰まりすぎて思考が追い付かないんですよね。隙あらばシェイクスピアつっこんでくるし笑
(ナレーション)ジャニーさんは最近の若者について、こんな感想も持っています。
(ジャニーさん)今の若い子はねぇ、昔はよかったねぇとかいうのは嘘。昔が良かったということはありえない。今新しいどんどんどんどんよくなってる。だからねぇ、みんな覚えるのも早いし、だって僕自身がツーステップ踏むだけで大騒ぎだったもん。それと同じでアイススケートもおんなじこと。「ちょっとみんな、アイススケートの練習しに行こう」っていったら「えぇー」って。「みんなが滑れるか見たいんだから」って。僕が「こうやって滑るんだよ」って教えるの。でも30分ぐらいになると、そこで滑っているのよねー平気で。それで1時間ぐらいたつともう大変。こっちなんて逆に手すりでこうやって。そんなもんですよ、若い子の力ってのはすごい。こっちは教えるつもりで行ったら、教えられるのよ。あとは(子供たちで)全部自分でできる。
(筆者感想)ジャニーさん、ジュニアと一緒にゲーム機使ってゲームして、ジュニアにぼこぼこにされたエピソードもありましたね。子供たちが遊んでる様子(表情)をチェックしているといわれていますが、どうなんでしょう
(ナレーション)蜷川さんも最近の若手にはいい素質を持った人が多いと感じています。
(蜷川幸雄)僕だっていい演劇人を作るためには、今の30歳31歳ぐらいがずらっといるんですね。いい俳優が。小栗旬くん・藤原竜也くん・綾野剛くん・いまでも即名前が出てくるのはだいたい31ぐらいですよ。彼らが演劇的な経験を積んで、きちっと日常的なセリフも言え、シェイクスピアの古典的なセリフも言える俳優を育てる。それを早くやっちゃわないと、伝えらんないし、エネルギーがかかるわけね。語尾が違うだろ、半音ずれてるだろ。半音ずれは何だ!日常生活をそうやってるのかとか、細かいことを指示しながら、時に話は私生活に及ぶわけだ。TVでインタビューされてるのに、生意気な態度をしてると、「そんな態度でTV出るなよ。失礼だろお客に、視聴者に」例えばそういうかかわりを持ちながら、言ってみれば、日常生活の何かが現れたりすることだってあるじゃないですか、人間の素質含めて。例えば、集団でやってる仕事だから、稽古場をムスッとした顔して入ってくると「アイツなんだ、何かやなことあったのか、この芝居気に食わないのか」。少なくとも心ある人だったら、その俳優がどうやって稽古場に入ってくるか見ているわけだから、理由なく単なる前の日に犬かなんかに噛まれて、例えばだよ。不愉快になって入ってくるなと。ちゃんとその日の仕事はみんなが気持ちよく仕事できる態度を選んでで入って来いと。そいうことから教育しないかぎり、一人の俳優って育たないわけだよ。だから、すごく手間暇かかる。ほんとにお水をあげたり、栄養あげたり、ご飯を食べない俳優にはご飯を食べろと。一緒にご飯を食べたり、うどんをわけっこしたり、そうしながら才能あるなってあるやつを育てていくわけ。手間暇かかるわけ、それをけなされると、このやろう殺してやるっと
(ナレーション)蜷川さんの俳優を育てていきたいという情熱は、並々ならぬものがあります。
(蜷川幸雄)お前らは片手間に批評してるかもしれないけど、オレたちは一発勝負でそれがダメだったら職が無くなると。あるいは再起不能になるかもしれない。それだけの思いで劇評を書くのかとボクは言うわけ。初めてやるボクらと同じように初めて見る演劇として舞台を見ろと。前線にいる俳優は、弾を直接浴びるようなものですから、演出家なんて後ろにいるからいいけど。その時は真っ先に飛び出して、ちゃんと飛び出してくる銃弾を受けてあげなきゃね。そういう関係の中で、一人の俳優を育てていくというのは片手間じゃできないよ。それでなんとかして、早く2,3年のうちに死ぬ前に全部伝えて、自立できる俳優をたくさん残しながら、ボクが考える演劇ってものを受け継いでくれるといいなと思ってる。もちろん絶対だとは思ってないですよ。思ってないけれど、そういうことの1割や2割が通じて、その1割や2割は世界に通用していることもあるんだから、正しいこともあるだろうと思うわけね。
(ジャニーさん)そうですよ。蜷川さんがおっしゃることは我々も非常に勉強になるところで、だからその通りですとしか言いようがないですね。
(ナレーション)蜷川幸雄さんとジャニー喜多川さん、お話を聞いているとお二人ともそれぞれ自分が育てた俳優やアイドルたちにも演出家としての方法論を伝えていこうとしています。いったいなぜなのでしょうか?
(ジャニーさん)タレントが自分で、まぁ錦織みたいに自分で演出したりするのが好きなんですよ。やっぱり。どうしても、自分たちでやらすと嬉しがってやるんですよね、みんな。だって僕が一人でいろいろやると大変ですから、自分で作るものは自分でやりなさいってことですよね、はっきり言えば。
(蜷川幸雄)でも現実問題としては、ジャニーさんがあれだけやると、手出しができる演出が居なくなりますね。実際はうまく細かくできてるの。照明の入るきっかけとか、集団を統一していく力とか、照明に対するダメ出しとか、振付に対するダメ出しとか、セットに対するダメ出しとか、やらなきゃいけないことは山ほどあって、それを全部やってるから、僕みたいな演出家でもジャニーさんの力量にちょっと追いつかないなぁ
(ジャニーさん)そんなことないですよ(笑)
(蜷川幸雄)手出しできない。集団も長い間やってるとリーダーみたいなのが出てきて、嵐なんかにも聞くんだけども「誰が演出なんかしてんだぁ?」って聞くと「だいたい、誰が一番発言力強いかな?」とかって、自然にやるべき人が何となく現れてくるんだよね。一つはジャニーさんのテクニカルな後継者がいないこと、技術ばっかりじゃなくて人間的なすべてがかかって統一されていくんで、そういったすべての事が、小さな信頼からスタッフの信頼までもを担わないと、こんなにおおきな舞台だと、きちっとしたテクニックがないとできないですよね、フライングを使っていいのかとかいう予算の問題とか、レールで移動しているとかいろんなことがあって、あそこでもうあんな早くフライング使っちゃうんだとか、普通だったら大事にとっとくわけね、見せ場にしようと思うから。でも慣れてるから、別にジャニーさんにとって目新しいことじゃないわけだ。そうするとのっけのほうのもったいないところで、びゃーってあげちゃうからさ、どうすんだ後の山場は。そこの全体を統一する力を持っている人がジャニーさん以外いないんだよ。だから若い人はちょっと太刀打ちできない。そして自分たちでやらせるってことは、一番文句も出ないし、自分たちで責任取らなきゃならない、そしてジャニーさんがサジェスチョンだけ与えてればいいってふうにしてんだけど、、、死ぬまで口出すだろうね。
(ジャニーさん)まぁ悲しいけどそうだね。我々どうしても口出さないわけにはいかないんだけど。みんな嫌うかもわからないけど、でもまぁ生きてる限りはそうせざるを得ないっていう気持ちはありますよね。それは自分に与えられたところだから、自分で責任持たされた範囲は自分でやるってことは、当たり前のことですよね。
(ナレーション)蜷川さん、ジャニーさんの思いの深さに改めて脱帽です
(蜷川幸雄)貴重な存在なんだよ、天然記念物「トキ」みたいな人ですよね
(ジャニーさん)ほんとにねー天然記念物みたいなりかけつつあるんです。
(蜷川幸雄)あれだけ若い人を育てて、いろんなことを伝えていくって中々あまりいないからね。
(ナレーション)さて、ジャニーさんは今後も舞台の演出を若手自身でやるように言い続けるのでしょうか?
(ジャニーさん)(自分で演出を)しなきゃしょうがないですけれど、でもいま若い子が、うちで育でてる関西ジュニアの子たちが、ボクが日生劇場で彼たちに全部自分でやれっていったんですよ。自分でやれって。一切手を貸さない。教えないといけないから。でも、こっちもいたたまれなくなってきて、手を貸すこともあるけども、でもやっぱり関西の子たちは今回はいい経験だなと思いますよ。そんなことやらしたの始めてだから。僕も年だから。おじいちゃんですから。
(ナレーション)自分の持つ情熱や方法論を後世に伝えたい。それは蜷川さんもジャニーさんも同じ思いです。
(蜷川幸雄)危機感無かったらバカですよ。この腐ったような演劇界や芸能界や日本で。
(ジャニーさん)危機感、、、さっきも申し上げたとおり、戦争の世界だけじゃないのよね、それをひしひしと感じただけに、それが生涯繋がってきているわけですよ。
(ナレーション)芸能界の第一線を走り続けてきたジャニーさん。そんなジャニーさんのことを蜷川さんはどう思っているのでしょうか。
(蜷川幸雄)僕が言うのもおこがましいけど、ジャニーさんは大変だったと思うよ。つまり日本には今までなかった形態を生み出して、そしてあんだけ持続的にタレントを育てて、スターを育てていくっていうのは、それはもうどこに地雷があるかわからない、もう何個か踏んでるだろうと思う。そういう中で、単独で出てきてる人だからさぁ、ほんとに、周囲は銃弾がばちばち飛んでくる中を走り抜けた人だと思う。それはなかなか自分で語らない人だと思うけど、やっぱジャニーさん大変だよな思うけど。こういうジャンル、これだけの少年少女の欲望を組織できるちゃんとした世界を作ってるわけだから、それはいろんな屈辱的な思い、喜びもあるだろうけど、大変な思いをして走り抜けたんだと思いますね。そう意味ではボクは尊敬に値する人なんだと認めていますけどね。
(ナレーション)ジャニーさんはこれまで何を思い、何を信じて演出家としての道を歩んできたのでしょうか。
(ジャニーさん)「信念があるからオレはやってるんだ」っていうことは嫌いですよね。しんどいからできると思うんですよ。理屈っぽいけど。「これしんどいことだな」と思ってるからこそできるわけで、ほんとにいつのまにか楽しみか喜びになっちゃうのね。芸能界ってところはそういうところですよね。自分はいつか(スターになる)なんて言って。今出てる子なんかでも、誰もバックだけで生きていこうとは思わない、意欲があるってことはみんな知ってるわけですよ。それは一般社会の仕事だって同じことだと思うんですよね。そりゃ、いつかは自分は実るだろうって気持ちが当然あると思うんですよ。芸能界はそれ以上に体をもって表現していく人間ばっかりだから、やっぱりタレントは一生っていうのがあるから、このままポーンと(育てている子を)捨てる気は全然ないですよね。彼らが生きる限りは絶対やっていかないとという信念はありますよね。信念はなんなんですかね?根性ですかね?そのへんが分からないですけど、やっぱり楽しいですよね我々は。一日だって辛いと思ったことはないです。みなさんも楽しみが返ってこないとしょうがないと(やってられない)思うんですよね。僕はそう思います、正直に言って。自分のやってることに辛いと思ったこととか、悲しみとかないんですもん。(子供たちが)やってくれることはすごく嬉しいことだと思う。みんなそれぞれ育っていきますからね、みんなそれぞれ達成した時が嬉しい。毎日が達成ですけれども、そういう日々がすごく自分の中で、皆の中に(達成した経験が)あるっていうのはいいことですよね、嬉しいことですよね。芸能界そのものが、我々に与えられた宿命であり、それがすごい良いことだと思う。本当に芸能界は素晴らしいですよ。アメリカはみな芸術家ですからね。芸能界は。日本の発想を考え直さないといけないと思いますよね。位が一番下なんですって?芸能人は、昔は
(蜷川幸雄)江戸時代に歌舞伎役者は1匹2匹って数えられたんですもんね。
(ジャニーさん)それはボクはおかしいなと思う。ボクは全然ないから、あたまからそんなこと考えもしないから。常に芸能界の人は胸を張って生きる人ばっかりだから。芸能人ってことを、うっかりすると日本人はそう(身分が低いと)考えていたかもわからない。僕はアメリカ(アメリカの視点)から見てるから。すごい劇場を借りて「芸能人に出てもらう」っていう発想から来てるから。アメリカの考えがあるから、そんなこと(芸能を低く見る)あったらいけないことですよね。
(ナレーション)そして、大切な舞台を見に来てくれるお客さんをジャニーさんどのように感じているのでしょうか?
(ジャニーさん)モノが始まったら、お客がいかに喜ぶかを見るのよ。この1月にやるあれも、もし1分なりとも気に食わなかったら、その3時間の中で1分なりとも気に食わなかったらお金を返すってはっきり言ってるんですよ。お客に対しては1分なりとも無駄なことをしては申し訳ないと思う。だから絶対に100%はあたりまえ。お客に満足してもらうように作るのが我々の商売ですから、それを成立させないといけない。一人一人がみんなその精神でやってるから、1分なりとも無駄にしないで出てる(舞台に立ってる)わけですから。(僕は)必ず言うんです「1分無駄にしたら、罰金払わなきゃいけないよ」って、そういう事です。お客はお金を払ってきているんだから。
(筆者感想)事務所へ、ジャニアイ・ジャニワの円盤待ってます
(ナレーション)ではここでジャニーさんの思い出の曲をお聞きいただきましょう。今回挙げていただいたラインナップの中で、唯一ジャニーズ事務所のアイドルが歌った曲です。元々はとてもアップテンポの洋楽なのですが、スローにアレンジしたお気に入りの曲なのだそうです。あおい輝彦で「時計を止めて」
④へつづく