事務所 ほんまごめん

メモ程度に書きます

ジャニーズ舞台『ANOTHER』 って何?その①

 

 

関西ジャニーズ 伝統の舞台『ANOTHER』

 

円盤化されていないこともあり、ファンの間でもあらすじは知ってはいるけど、詳細がいまひとつわからないといわれている舞台『ANOTHER』*12002年には関ジャニ∞結成前のメンバーが出演、2013年には中山優馬くんとジャニーズWEST結成前のメンバーとTravis Japanなどなどが出演、2016年に関ジュで再演(2013年をベースの演目)しています。2002年版は被爆を取り扱った作品、2013年版はシェイクスピア『夏の夜の夢』ハムレットを取り入れた作品となっています。

 

私は長らくジュニア担兼ジャニーさん担にもかかわらずブログ等でレポを一切書かずへらへら過ごしていたんですが、ジャニーさんがお亡くなりになってからいろいろ思うところもあり、ジャニーさんが演出された舞台の考察・解説を書いていこうかなと思っています。初期SHOCKから現在までずっと残されているセリフシェイクスピアは芝居の原点」という念仏を唱えられなければ、中高生の時にシェイクスピアなんて読まなかったと思いますし、まぁ読んでもわからないことが多いのですが、ジャニーさんの作品からいろいろ影響を受けたなと思うので、一度文章にでもしようかなと思います。

 

今回は、2002年版『ANOTHER』を取り上げたいと思います。この舞台は、関ジャニ∞の結成に深く関わっていることに加え、ジャニーズ舞台で初めて本格的に戦争・差別をテーマとした作品、かつオール関西弁で関西ジュニアの舞台の基礎となった舞台であり、ジャニーズ舞台史の中でも重要な作品であったのではないかと思います。けっこう細かくメモを取れているので、書いていきます。

 

 

黄金時代から2002年までのジュニアの状況

ジャニーズの舞台は、シェイクスピア作品、ウエスト・サイド物語、日本の歴史に加えジュニア達が直面している状況が理解できないと、なんだこれ?状態(いわゆるトンチキ)になる確率が高くなります。ですので、とりあえず当時のジュニアの状況(黄金時代から冬の時代の流れ)を確認しましょう。

1997年頃のジュニアは、月曜日はミュージック・ジャンプ収録、火曜日は愛LOVEジュニア収録、木曜日はMステのリハ、金曜日はMステ本番、土曜日はミュージック・ジャンプのリハかレッスン、日曜日はレッスン、そして1998年からは8時だJ、愛ラブB.I.G.、やったるJなどのゴールデンタイムのレギュラー番組が加わり、いわゆるジュニア黄金期を迎えます。しかしジュニアの不祥事によりタッキーなど第一線で活躍していたジュニアのデビューが見送られ(黄金期の勢いを止めないため社長にデビューさせられないと言われ)、代わりに嵐のデビューが決まり、その後タッキー、翼くん、すばるくん、小原くんが一緒に組むと言われていた「X」というグループもデビューのめどが立たず、2001年3月にゴールデンタイムの番組(Music-enta)の終了とともに、ジュニアの黄金期も終焉を迎えます。(このころファンの間ではいろいろなグループ構想の話が漏れ伝わっていて、「X」というグループは、X JAPANを好きなタッキーのためにデビュー曲をYOSHIKIさんに書いてもらおうとしていたとかそんな話だった気が?だからデビュー曲をYOSHIKIさんに書いてもらう夢をSixTONESに託したの??ジュニアの誰かアホのふりしてタッキーに聞いてみてほしい、、、 あくまでファンの間で広まっていた話ですが)

 

関西ジュニアに関して言えば、ほぼ仕事がなくなり年に数回ある先輩のコンサートのバックで生存確認をする状態までになっていました。そんな2002年、降って湧いてきたような松竹座で単独の舞台『ANOTHER』、初日の数日前には振付師さんから厳しいことも言われます。

「はっきり言うと、関西ジュニアって何年か前と違ってさ、一時期勢いがあったときから時間が経ってんだよ。君らその時すごい子供だったの。ホントにさ、今思いっきりやらなかったら、お前らがしっかりやらなかったら関西ジュニア、ヤバイよな。すごいヤバイと思う。ホントに普通のレベルでやってるんだったら、ジャニーズJr.辞めればいいんだよ

村上くんは、振付師さんの言葉を受け、公園でダンスの自主練に励みます。振付師さんからの喝もあり「この舞台が成功しなければ、関西ジャニーズの未来ない」と意気込みんで迎えた初日、ガラガラ。無料チケットも配布して席を埋める状況でした。しかし舞台が評判を呼び人気公演となっていきます。個人的な感覚では、たしかにみんな20回ぐらい入ってたけど笑、客席も埋まっていたような気はします。※関ジュはレッスン場がないから、みんな公園とかで練習してたんですよね

 

■『ANOTHER』ストーリー(1幕)

シンゴ(村上)ユウ(横山)リョウ(錦戸)ヒロ(内博貴)マル(丸山)ヤス(安田)イチ(浜中文一)の、年齢がばらばらの少年7人は青春の卒業旅行として南の海をクルーザーで航海中、嵐に巻き込まれ遭難してしまいます。少年たちが命からがら漂着したのは、日本なのかどこなのか見当もつかない無人島。いつか救出されることを信じ、少年達は島での生活を始めます。自らの手で火をおこし、家を作り、食料を探す。そんなサバイバル生活に慣れていくが、日に日にホームシックになっていく少年たち。帰る当てのない苛立ちと不安から、ヒロ達はリーダーであるシンゴ、ユウに不満をぶつけ、7人は決裂。シンゴはシンゴでメンバーの思いが一つにならないことに苛立ちを覚える。そして年齢も若く、繊細なリョウは、精神状態が悪化し南の海に浮かぶ母親の面影を追いかけ命を落としてしまう。弟のように可愛がっていたリョウを自分たちの至らなさで失ったことに絶望する少年たち。そんなとき、死を悲しむシンゴの前に一人の少女(キララ)が現れ、島のお守りでもある貝の首飾りを渡す。どうやら島には人間がいるようだが、なにか様子がおかしい。そして少年たちは、住人が年に一度行う「儀式」を目撃してしまう。儀式を行っていた若者たちのリーダーハリオス(すばる)は6人に「今すぐ。この島を立ち去れ」と命ずる。

 

①オープニング曲「旅人」

 【考察】ミュージカルのオープニングナンバーに合わせて自己紹介をする流れなんですが、実はこれは初代ジャニーズから現在のジュニアにまで引き継がれている「自己紹介ラップ」の元ネタであると言われています。ジャニーズ自体の出自は一応ミュージカルなので、メンバーが別のメンバーを紹介するなごりが自己紹介曲に繋がっているようです。

 

②航海中に嵐に巻き込まれ、到着した無人島で不安になる少年たち

無人島に到着した少年たちは、日本に残してきた家族のことを考えます。お母さんは子供たちだけで航海することに反対していたな、なんで自分は言うこと聞かなかったんだ、、、お母さん心配しているかな?のシーン

(安田)誰もおらん島で生きてるなんて、思わへんねんやろな…

(丸山)絶対大騒ぎやな……

(浜中)どうしたら、、どうしたらええんやろ、、、、、、、

(村上)アホか!!!考えんなってそんなこと

(浜中)<号泣>え~ん

(村上)<浜中に向かって言う>泣いたら何か変わんのか?泣いたらここ抜け出して家帰れんのか?

(横山)そりゃお前(村上)はええわ、、帰ったって待っててくれる人もおらんしな、みんなの気持ちなんかわからんやろ

(村上)<横山を殴る>

(横山)<素直に謝る>すまん、(親の事言って)悪かった

(村上)<許す>こんなことしてる場合ちゃうな

(横山)これからどうするかやな、、、、、

(村上)<満面の笑みで>生きようや!!!

(丸山)戦いやな!!!なんか怖いけどワクワクしてきた

(安田)楽しんでさ、みんなで帰れる手段考えようや!!!

(村上)みんながんばれるか?みんなで帰れる日まで生きようや!!!

(全員)うん

 【考察】関西民もびっくりするほどの関西弁で話は進みます。そして、どうやら村上くんは何かの事情で親がいないことが判明します。また、少年たちのリーダー格が村上くんと横山くん、陽キャが丸山くんと安田くん、末っ子気質が錦戸くん、浜中くんという位置づけのようです。「遭難した少年たちの関係性」「当時の関西ジャニーズの関係性」をリンクさせながら物語を観れるようになっています。なんとか関西ジャニーズを引っ張っていかないといけない村上くんと横山くんがグループを鼓舞していきます。舞台『少年たち』では「少年院=デビューを目指すジャニーズJr.という檻」として観れるように構成されていますが、この無人島は事務所から見放された島の隠喩なのでしょうか?つらい笑 まぁ物語自体はテンペストが下敷きではあるんですが

 

③生きていくために、サバイバル生活を始める少年たち

少年たちは、いつか救出されることを信じて行動します。まずは空から見て遭難したことが分かるように、旗に見立てて服を干します。この場面で『ANOTHER』伝統の衣装の葉っぱのパンツが登場します。2002年は安田くんと浜中くん、2013年は向井くん、平野くんが引き継いでいます。下記は参考イラストです。こんな感じです。

f:id:mihiromemo:20200320195037p:plain

そして、水を探し、火をおこし、家を作り、食料を探したりとサバイバル生活を始めます。この物語で一番陽気な音楽に合わせて話は進んでいきます。

(全員)ラ~ララ ラ~ララ 家をつくろ~う♪

(村上)building oh my house みんなで力を合わせ♪

(内)なんでもいいから 材料と具 集めよう♪

(錦戸)むちゃくちゃ大自然 がんばれサバイバール♪

(丸山)トロピカルな気分じゃ もうすぐ野垂れ死に

(全員)Oh my house 日当たり良好♪

(全員)Oh my house 丈夫で長持ち♪

(全員)Oh my house ベットは広々♪

(全員)居心地満点 Ocean viewだぜ♪

(全員)家をつくろ 木を組んで♪ 家をつくろ 足場固め♪

(全員)家をつくろ 力合わせ♪ 明日のために♪

~(略)~

 【考察】陽気なミュージカルソングで、物語で一番少年たちの心が一つになって希望に満ち溢れている感が出ていてよかったんですが、歌が標準語なんですよね、、、、「だぜ」なんて関西の子は言わないから、関西弁を組み込んでも良かったんじゃないかな?ちょっと惜しいなと思いました。

 

④極度のホームシックに陥り、少年たちが揉めだす

希望に満ち溢れていた場面から一転、遭難して3日、未だに救出されない状況に不安が増す少年たち。ついには村上くんと横山くん以外は極度のホームシックに陥り「お母さんに会いたい、家に帰りたい」「もう助からない、やってられない」など悲観的な言葉を発するようになります。

(村上)アホかお前ら、わがままばっかり言いやがって、甘ったれんな。それ俺だって帰りたいよ。ほんまは泣き出したいくらいや。でもな、お前らの顔見とったら励まされんねん。俺が泣きごと言ったらどうなんねんって。だから一生懸命生きてる。

(横山)もういいねん、シンゴ。みんなわかってんねん。ただ言ってみたかっただけや。つらい思いを吐き出したかっただけや。

(村上)<みんなを見て>約束したやろ!?力を合わせてみんなでがんばろって。なぁ!!!なぁ!!!!

(丸山・安田・内・錦戸・浜中)<その場を立ち去り場面が変わる>

 

(丸山)いつまで待ったらええねん!!!このままやったら俺らは死んでしまう!!

(内)もうシンゴたちの言うことなんて聞かへん。騙されへんぞ。

 <反抗ソングを歌う>

 

(横山)<ヨコ現れ、内くんたちに向かって>さっさと帰れぇぇぇぇぇぇ。帰りたい奴は帰れぇぇぇぇぇ。みんな自由なんや、好きなように好きなところに行ったらええんや、海があんなら泳いだらええんや。

待つんや、もう少しや、人生待たなアカン時がある、それが今なんや

 

(安田)<ヨコの首をつかんで>俺たちは帰りたいんや(泣)

(横山)<マルをつかんで>お前はどうやねん。言ってみろや。なんやお前ら!!!!!!

(内)お前(ヨコ)は大阪に帰りたくないんか!?<ヨコと殴り合い>

(横山)お前らのこと考えてんねんやろうが……<無言で内くん立ち去る>待てや

【考察】グループの思いが一つにならず焦る年長者、兄組の思いを汲み取れず弟組で結束を固め、しまいにはメンバー同士で殴り合い…観客は「推しのグループにもそんなことあったな…ハハハ笑」なんて思いながら、現実世界とリンクさせながら観れます。「人生待たなアカン時がある、それが今なんや」というセリフをどういう気持ちで言っていたのでしょうか…

 

⑤神経衰弱に陥り、入水自殺

リョウ(錦戸)はもう一生この島から脱出できない、もう二度とお母さんには会えない悲しみから精神に異常をきたします。南の海に浮かぶ母親の面影を追いかけ、そのまま命を落としてしまいます。

(錦戸)お母さん、ぼくめっちゃ帰りたいねん。ごめんな、わがまま言って。

でも絶対海が見たかってん。

お母さん言ってたやんな「友達だけで船を乗るのは危ないからやめときなさい」って。

でもなキレイやったで、南の海は。

雪? 雪や!!<舞台に雪が降る>

故郷の雪が降ってきた。お母さんと一緒に見た鞍馬の雪

この海を渡ったら、京都に帰れる。

僕帰るよ、もうすぐ。もうこの島はいやや。

お母さん、待っててくれるやんな? すぐ帰るから!!

寒い、寒い。お母さ~ん、きれいやったで、南の海。

<セリが下がって、錦戸くんが消え、空から花が降ってくる>

 【考察】突然の鞍馬の雪?突然のトンチキはジャニーの合図✨これは、牛若丸の話をベースにしていて、どこかで生きているであろう母に会いたくて仕方がないという気持ちを重ねています。ジャニーさんは牛若丸(義経)が大好きで、「鞍馬」「天狗」などのフレーズを使って、とにかくストーリーにぶち込んできます。

あと、「夏に雪が降る」演出ですが、Sexy サマーに雪が降ると同じ元ネタの『南の島に雪が降る』のオマージュです。事務所舞台ではよく引用されるネタなので、未読・未視聴の方は是非見てね!!

amzn.asia

入水自殺は『ハムレット』のオフィーリアの死を重ねているんですが、、、、オフィーリアは神経衰弱に陥り、小川で溺死するのですが、なぜ自ら小川に入っていったのかは解釈が複数あります。どうやらジャニーさんは、水辺に愛する人の面影が映り、もう一度会いたくなって、愛されたくて入水したという解釈をされているようです。なるほど!!ジャニーさんは義経ハムレットを加える演出がかなりお好きなようで、ジャニーズ舞台では多々出てきます。

f:id:mihiromemo:20200320195425j:plain

引用:ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」(1852年)
 

⑥レクイエム

リョウが死に、「俺たちが殺したんだ」と自分たちを責める少年たち。

 

 

【考察】曲レクイエムの振付で、亡くなった錦戸くんが担がれているのは、ウエスト・サイド物語のトニー(ハムレット)のオマージュです。ジャニーズ舞台で初めて担いだのは『MASK』だと思います。ジュニアのコンサートでも担ぐ演出があります。あと、この白い花にも意味があると思うのですが、何の花なのかわからなくて(内くんの顔ばっかり見てたごめん)

ハムレット』では花言葉がたくさん出てくるので、おそらくこの花にも死に関連した花言葉があるのではないかと思います。ご存じの方いらしたら教えてほしいです。

 

悪夢を見るシンゴ

(村上)夢であってくれ、こんなこと悪い夢や。

(謎の女性(キララ))<村上の背後にいきなり登場>涙を拭いて、苦しみも悲しみも乗り越えるためにあるものなの

(村上)誰ですか?あなたは?

(キララ)これは島の宝物。持っていると勇気が出るわ<村上に首飾りを渡し、消える>

(村上)待ってくれ!!島に人がいた?幻か?誰や?誰やねん!!俺は悪夢を見てんのか?

(錦戸)<幽霊となって登場>

 

 【考察】グループの中で一番元気だった村上くんが、リョウの死によりバランスを崩し始め悪夢にうなされ始めます。ジャニーさんは他の舞台でもストーリーに「悪夢に悩まされる」を入れてきます(千年メドレーもですね)。そして、錦戸くんが幽霊になって舞台上の所々に出没するマジックが始まります。ジャニーさんは、ジュニアの力量を補うために瞬間移動のマジックを取り入れていると言われることが多いのですが、もう一つの意図として「シェイクスピア・マジック」の1つの「テレポーテーション」を取り入れたかったのかな?と推測しています。シェイクスピアの「テレポーテーション」とは何だ?という話は識者に聞いていただきたいところなんですが、「場面を切り替えず人物を移動させる」的なことで、それをマジックを使って華やかに演出したかったのかな?と思っています。ジャニーズの舞台ってよく瞬間移動するんですよ、ほんとに笑

 

無人島だと思っていた島に、謎の人物が登場

悪夢から醒めると、島の墓場にいた村上くん。横山くんたちもさまよって墓場に辿り着きます。その時、島から謎の人物たちが目の前に現れ、儀式を始めます。

(セーニャ:謎の人物たちのリーダー)すぐにこの島を立ち去ってもらいたい。沈黙を守ってきた神聖な島を汚してほしくないのです。

(ハリオス:すばる)今すぐにこの島を出て行ってくれ。明日は神聖な慰霊の日。1日の時間の猶予を与えよう

(セーニャ)異邦人は立ち去りなさい

(ハリオス:すばる)約束しろ、この神聖な島から立ち去れ

(村上・横山)<謎の人物たちのグループにリョウの亡霊を見る>リョウ~~~

 <1幕終了>

 

【補足】どうやら、謎の人物たちは、明日執り行われる「慰霊の日」のために、無人島にやってきたようです。島から脱出する手段を持たないのに、今日中に島から立ち去れと言われ焦る村上くんと横山くん!!!っというところで1幕終了です。

 

被爆者を取り扱った2幕へつづく

 

mihiromemo.hateblo.jp

 

*1:1993年にSMAPで初演、東京のアートスフィアと京都の南座を衛星中継し、二つの場面を同時進行しながら話を展開する演出

HiHi Jetsへ愛をこめて

 

今回は、HiHi Jetsについて勝手に考えたことを書いていきます。ジャニーさんこのグループのことすごく好きじゃない?と思っているので、そのあたりのことを書こうかなと思います。

 

HiHi Jetsとして初めて雑誌に載ったのは、MYOJO 2015年12月号(2015/10/23発売)で「HiHi JET」の表記で誌面に登場した時です。ローラーをメインとしたジャニーズJrの新ユニットが誕生したとのことで、Twitterが騒がしかったことを記憶しています。ジャニーさんの好きがつまったグループだなと思ったので大事に雑誌を保存しているんですが、、、ジャニーさんの好きとは何だという話を、、、

 

HiHi Jets の「JET」ってあれも掛けているよね?

JET」という単語を見たとき、おぉ?ついに来たかと思った人も多いと思います。そもそも「HiHi JET」の名前の由来は、初期メンバー頭文字をとって「HiHi」、そして"Johnnys Entertainment Team"の略で「JET」です。

 ジャニーさんがグループ名をつけるときは、歴史系(例:光GENJI)、シェイクスピア(例:嵐・B.I.Shadow)、頭文字(例:KAT-TUN)、こっそりオマージュ系(例:7MEN侍)だと思うんですが、「JET」って『ウエスト・サイド物語』の非行グループの「ジェット団」のオマージュなのかなと思っているんですが、、、本人たちは雑誌等で言及していないのですが、勝手にそうじゃないかなと思っています。昔、薮宏太くんと、八乙女光くんが所属していたYa-Ya-yahビートルズの曲『A Hard Day's Night』(旧日本語題:ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!)にちなんでつけられたりしていますし、「JET」もこっそりオマージュ系なのかなと考えています。ジャニーズ事務所設立のきっかけとなったミュージカル映画をオマージュした名前をつけるってことは、かなり期待しているグループなんだなぁなんて思いました。

 

②ローラースケートってそもそも何なの?

ジャニーズの歴史の中で、最初にローラースケートを使ったグループはみなさんご存じ「光GENJI」なんですが、これは当時ローラースケートを使ったロンドンの人気ミュージカル『スターライトエクスプレス』が日本公演をするということで、それに便乗して「光GENJI」をデビューさせちゃおうという流れでした。ジャニーさんはミュージカルが大好きで、アメリカで過ごした高校生・大学生のころを下記の通り答えています。

(ジャニーさん)学生時代からずっと音楽専攻。ステージングからアカペラのコーラス隊、切符切りに至るまで様々な勉強をしましたね。だから、あの頃の名作ミュージカルは百二十パーセント見ているという自信がありますよ。初演前のオフブロードウェイを、わざわざフィラデルフィアまで観に行ったこともある

引用:産業としての「ジャニーズ」を科学する

ローラースケート、バトンなどジャニーズ的ミュージカル性を持ち合わせたHiHi Jetsは、結成当初から舞台で活躍することを約束された存在でもあったのではないかと思っています。ジャニーさんの好きが詰め込められていますね。

 

 

そんなHiHi Jetsですが、順風満帆な活動だったのかというと、そうではなかったと思います。このあたりのことは、もっとお詳しい方がおられると思うので恐縮ですが、少し書いていきます。

怒涛のメンバーチェンジ

2015年3月にHiHiの前身グループとなる「中3トリオ(井上・橋本・他1名)」が結成、Sexy Zoneのツアーで紹介されます。平成のたのきんトリオ??金八があったら、この3人でドラマ出ていたんじゃないかと思ってしまいます。同年7月にキンプリのバックに中3トリオと猪狩くんが付き、同年10月23日に中3トリオの1人を除いた井上・橋本・猪狩・岩﨑大昇・他1名がMYOJOに「HiHi JET」として登場します。そして、同月の10月26日のジャニーズワールドの制作発表のときに大昇くんがメンバーから外れたことが明らかになります。その後、現在のメンバーになるまで4回のメンバーチェンジがありました。このあたりはWikiでご確認ください。

 

猪狩くんの骨折、美 少年の追い上げによる焦り

2017年4月に猪狩くんが骨折し、4月29日から始まる「ジャニーズ銀座」に残るメンバー3人で出演しなければなりませんでした。当時は美 少年の勢いが凄く伸びている時期でもあり、そこに猪狩くんの骨折があり本人たちはかなり焦っていたようです。

(瑞稀くん)2017年に猪狩が骨折して『ジャニーズ銀座』に3人で出演することになった時。ただでさえ活動が縮小されていたのに、美 少年の人気が、ものすごい勢いで押し寄せてきてたんです。そこで初めてグループ内で話し合いの場を設けました。完全に、美 少年への対抗心でしたね。焦ってもいました。「俺ら、このままじゃ消えるぞ」と。それでローラーの練習時間を増やしたりダンススキルを底上げするレッスンをしたりしました。

引用:Dance SQUARE vol.34

 

Mステの悲劇 HiHi Jetsのオリジナル曲『Hi Hi Jet』を美 少年が歌うことになる

(瑞稀くん)(猪狩くんの怪我した時期)そんななか、ある音楽番組に美 少年がメインで俺らがバックとして出演したことがあったんです。決してキャリヤ優先の世界ではない…とは思っていたけど、その時はさすがに理由を聞いて。そしたら「番組内で、猪狩がいない理由を説明するタイミングがないから」と。その瞬間、さらに危機感を覚えましたね。

引用:Dance SQUARE vol.34

 

髙橋優斗が泣いたことで理解し合えたこと

(瑞稀くん)猪狩が休んでる間、オレら、相当深くHiHiのことを考えたんだよ

(橋本くん)ただ「ジャニーズ銀座」までは、とにかく必死に「この目の前のジャニーズ銀座を乗り切ろう!」って感じで、ガムシャラに突き進んで」

(瑞稀くん)「はたして乗り越えられるのか?」って不安な気持ちになったな

(橋本くん)あと「ミュージックステーション」への出演もあったし、ほかのお仕事でも「全員そろっていない」ってことの不安感があって

(瑞稀くん)でも、不安に思っても事態が変わるわけじゃない。そんな目にみえないことにイライラしたり、悲しくなったり、そしてHiHiのことをめちゃめちゃ大切に思っている自分に気づいたり

(橋本くん)うん。わかるよ。当時は3人とも、きっと同じ気持ちだった。

(髙橋くん)いろんな「悔しい」と「どうしたらいい?」が重なったんだよね

(瑞稀くん)ホントに3人で、いろいり話し合ったよね。「とりあえずテレビに出るときは、髪型にも気を付けて、外見にもちゃんと気を配ろう」とか、ふだん考えないようなことまで話し合って(笑)。優斗も。(泣きまねしながら)「オレめっちゃ悔しいっす」

(髙橋くん)うわ~バラされた。最悪~(笑)

(瑞稀くん)ハハハ。でも今回のことで優斗のアツさもわかったし、HiHiのことを大切に思う気持ちが伝わってきたよ。

引用:Wink UP 2017年9月号 

 

■素直に迷惑かけてごめんと言えなかった猪狩くんが泣く

(猪狩くん)みんなにものすごい迷惑かけちゃった…申し訳ないっていう気持ちでいっぱいだったよ。でもシリアスに「申し訳ない!」って謝るのも違うような気がしちゃってて、あえて軽い感じで謝っちゃったんだよね。むしろ、触れないでふだんとおりにしていたほうがいいのかなっていう気持ちもあって

(髙橋くん)なるほど。猪狩は猪狩で、考えを持ってたんだ

(橋本くん)っていうか、猪狩は考えすぎなところがあるんじゃない?もっと物事をシンプルに考えてもいいと思うよ。頭がいいから、いろいろ考えちゃうんだよ。

(猪狩くん)そうなのかな。あと、どこか現実から逃げちゃってたのかも。今はほんっと申し訳ないって言える。

(橋本くん)でもね、さっきスタッフさんがうれしいこと言ってくれたよ。「過去、そういう大変なことを乗り越えてきた先輩グループはみんな強いし、絆もできてるよ」って。

(髙橋くん)お~。俺ら強くなれるね!

(猪狩くん)うん!(ポロっと涙がこぼれる)

(髙橋くん)お~どうしたどうした。それは何涙だ?

(猪狩くん)ホントにみんなには感謝の気持ちしかないし、申しわけないっていう気持ちと、自分何やってるんだっていう気持ちと…もう、何の涙かわかんない。

(高橋くん)ヤベー、オレもつられそう…

(瑞稀くん)オレと橋もっちゃんは泣かないよ(笑)わかった、次に4人で泣くときは、心からのうれし涙にしよう。※このあたりめっちゃ瑞稀くん

(橋本くん)お~うまいこと言った!(猪狩を見てイタズラっぽく)おまえって、そんな感じで泣くんだ!オレら、初めて見たよ。※このへんめっちゃはしもっちゃん(笑)

(猪狩くん)(さらに泣きじゃくりながら)オレ、今まで自分のこと、泣いたりしちゃいけないキャラだと思っていて…

(瑞稀くん)だよな。ちょっと強がるポーズあったんだよな。

(猪狩くん)(うなずく)だから休んだ時も、素直にごめんなさいって言えなくて…。今日みんなの話を聞いて、ホントに自分のことを子供だと思った。

(髙橋くん)いーや、オレはまだ信じないぞ!復活したこれから「お、猪狩、前と変わったぞ」って思わせてくれないと。

(猪狩くん)(うなずく)

(髙橋くん)オレらはケガしたことを責めてるんじゃないよ。HiHiのことをもっと大切にしていこうぜ!

(橋本くん)おまえの大事なシンメがああいってるぞ!

(瑞稀くん)猪狩、HiHi Jetのこと好き? ※この時はHiHi Jetです

(猪狩くん)(号泣しながら)大好き!

(瑞稀くん・橋本くん・髙橋くん)(3人目を合わせて微笑む)

 引用:Wink UP 2017年9月号

 

この日のことをHiHi Jetsは忘れないようにみんなで日付をメモします。

「2017年7月8日」

彼らが決意を新たにした日としてファンの間でも話題となりました。そして今これを改めて読み返した方で、2019年の彼らの活動を見守ってきた人はいろいろ思うところがあるのではないのでしょうか?これからも乗り越えないといけないことがたくさんあると思いますが、頑張ってほしいところです。

 

加入メンバーの髙橋くんと仲が悪かった時代

ジュニアを応援しているとあるあるの話なんですが、メンバーの不仲を見守る時期ってありますよね。タッキーもジュニア時代は翼くんと3年間ほぼ口をきいていなかったり、Snow Manの佐久間くんと舘さまは10年ほど仲良くなかったのに2015年にタッキーからのアドバイスを受け、ご飯を食べに行って仲良くなるなど、不仲エピソードってたくさんありますね。

(猪狩くん)その時(2016年ドリボ)俺ら、めちゃ優斗と仲が悪くて。だってなにも出来なかったんです、ローラーも出来ないのにノリで入ってきた感じがマジで嫌で。

(橋本くん)去年のサマステ期間中に俺たち怒ったの。

(瑞稀くん)俺は、どうしていいのかわかんなくて落ちてた。で、「優斗はHiHiにいたいのかいたくないのか」って本音を聞いたんです。その時すっごく感じが悪くて、開き直ったんですよ!

(橋本くん)けっこうひどかったよ。あの時は!

(瑞稀くん)優斗も優斗なりの考えあってのことだったんですよ。

(橋本くん)めちゃくちゃ話し合ったんです。去年のサマステ中に。

(井上)涙、涙だったよね。

(髙橋くん)そしてその後、私生活でもローラーを履く!という掟が出来て。

(猪狩くん)そう!とりあえずローラー履いとけ!って。階段もローラーで上がれって!

(髙橋くん)みんなが言ってくれたことは正解だったんですよ。俺、入ったばかりで全然足んなかったから。ローラー教えてもらってたのに、ある程度滑れるようになると出来る気になっちゃって、それ以上スキル上げようとか思ってなかった。本当にひどかった。

 引用:2017年STAGE navi vol.16

 

 

最後に

ウエスト・サイド物語』のなかで、ジェット団が歌う歌があります。

 

その名も『Jet Song』

 

HiHi Jetsの初めてのオリジナル曲が『Hi Hi Jet』なのも、この辺りを意識したのかなぁ?なんて考えたりしています。そして『Jet Song』ではこう歌われています。

When you're a Jet,(一度ジェッツになったら)

You're a Jet all the way(ずっとジェッツさ)

 

 

色々あったと思いますが、頑張ってほしいなと思っています。おわり

 

f:id:mihiromemo:20210117174609j:plain



ジャニーさんインタビュー集 蜷川さんラジオ編④

 

引き続きジャニーさんインタビュー集 最後は面白ジャニーさんの話です。

 

(ナレーション)インタビューも終盤に差し掛かりました。ジャニーさん最近起こった大事件があったそうです。いったい何が起こったのでしょうか。

(ジャニーさん)最近では、エレベーターをかっこよくつけたりしてね、エレベータをつけたのはいいけど、いきなり止まっちゃって、それで4日間エレベーターの中で閉じ込められちゃって。

蜷川幸雄)どこで?

(ジャニーさん)自分ところの家で。自分の家にね、自分のエレベーターをつけたんですよ。誰も(閉じ込められているの)わかんないわけですよ。

蜷川幸雄)非常ベルは?

(ジャニーさん)非常ベルは後でつけたんです。エレベーター自体が動かないのがおかしな話なんですよ

蜷川幸雄)4日間もエレベーターの中って大変だったでしょ?

(ジャニーさん)4日間ほったらかしだったんですよ。でもこっちも悪いんですよ。得意になって自分の部屋にエレベーターをつけて、オレの専属だって喜んでたら

蜷川幸雄)携帯もってなかったんですか?

(ジャニーさん)自分の家で携帯持って歩かないですよ。おっしゃる通りで、携帯持って入ったらよかったなと…

蜷川幸雄)変な話ですけど、誰が発見してくれたんですか?

(ジャニーさん)これがまた長い話になりますけど(笑)僕が洗濯機を買ったんですね、それを業者の人が月曜日の夕方に持ってきてくれて。その時に、「社長が今居ないから、名古屋に行ってるから」とか、あの辺にいる人(事務所の人が)が平気で無責任なこと言って。でも電気屋さんが「うちはカギまで預かってるが」と。じゃぁ勝手に入ればいいじゃないですかってなって、それで人間が来て。幻覚に入りそうになってたら

蜷川幸雄)その時にエレベーターが動いたんですか?

(ジャニーさん)いやいや、「わぁー、助けてくれー」って叫んで(気づいてもらった)

(略)蜷川エレベーターエピソード

(ジャニーさん)そのエレベーターは、本来クレームを言うべきなんですけど、許可が下りる前にボクが使っちゃったから(笑)

 

(ナレーション)そんなおちゃめなジャニーさんに、蜷川さんのどこがすきなのかきいてみると子供のような笑顔で答えてくれました。

(ジャニーさん)すべて、感動しちゃうんです!!あのねぇ、例えばねぇ、自分が(蜷川さんが)オリンピック頼まれたら「オレよりジャニーの方がよく知ってるから」とか平気で言うんですよ。僕はそんなこと言われたって有難迷惑ですけど(笑)

蜷川幸雄)ジャニーさんいいんじゃないですか

(ジャニーさん)蜷川さんの声は大きいから、そういうとみんなが本気になって「わー」と言ってくるんですよね。先生は(蜷川さん)本物をやるわけだから。そうですよ

蜷川幸雄)嘘だよ

(ジャニーさん)日本で、外国で(名声が)響き渡っているし

蜷川幸雄)そんなことない

(ジャニーさん)それは大切なことなんですよ。蜷川先生みたいに、外国に受けいれられる人少しでもたくさん出てきてほしいですよね。そんな簡単に蜷川さんみたいな人が出てくるはずはないけど、でも、これからの世の中っていうのは、絶対必要ですよね。ホントに世界を回っていますからね。僕はもう九州ぐらいがやっとですから(ジャニーギャグ)

 

(ナレーション)若いスターを束ねるジャニーさん、一方の蜷川さんは幅広い年代の俳優に挑戦を続けています。違う個性を持つ者同士、二人は互いをとても尊敬しています。

(ジャニーさん)若い子もなんかも蜷川さんをみんな知ってるんですよ。今日はこれ蜷川さんが観たっと言うとびっくりするんじゃない?って脅かしたんですけどね、尊敬される人ですよね

蜷川幸雄)それはジャニーさんのところのスター出ている芝居をやるから、僕は若い子に知名度があるわけ

(ジャニーさん)いや~、、、おじいちゃん使ってるじゃん

蜷川幸雄)おじいちゃんも扱ってるけど、おじいちゃんはおじいちゃんしか来ないよ。今やってる舞台はやっぱり年齢は圧倒的に上で、だいたい客席が黒いんですよ

(ジャニーさん)ははは(ジャニー結構な感じで笑う)

蜷川幸雄)だいたい40~50歳だね、それ以上ですね。いいのは大人がいるからね、何て言うんですか、若い子だけに情報が独占されないで、だいたいジャニーさんのところの人が出ると、みんな若い人

(ジャニーさん)逆に言うと、蜷川さんはさすが大人の世界なんですよ、我々には子供の世界しかないわけ。だからやっぱりタレントは50歳過ぎてから味が出るっていうか、そういう人間になっていくから、そういう調味料って言うかな、すごく立派だと思いますよね。蜷川先生なんかは、おじいちゃんやおばあちゃん相手に一生懸命に作ってるわけじゃないですか。これはすごいこと。僕はできないですもん。はっきりいってこれは、羨ましいですよ。

 

(ナレーション)83歳を過ぎてもなお舞台への情熱を失わないジャニーさん。蜷川さんはますますジャニーさんが活躍することを期待しています。

(ジャニーさん)81歳がピークでしたね。もう大変ですよ、年取ると。だから先生も年取る前にちゃんとやっとかないと。

蜷川幸雄)(ジャニーさんは)早くみんなを引き連れて、まずアジアからやっていったらいいですよ。

 

 (ナレーション)そして最後にジャニーさんはこれからやりたいことを教えてくれました。

(ジャニーさん)若い子はこれからどんどん伸びていくけど、やっぱりねぇ大事しないといけないと思う。タレントとして育ってるけど、人間としてまだ育ってないわけですよ。ボクはやりますよ絶対に。死ぬまえにちゃんとやります。若い子をね、若い子を築き上げなきゃ。金儲け主義でやってるっていうわけでないのは分かると思います。いかにもボクが築き上げた人のように聞こえますけど、違うんですよね。これから、築き上げることによって、子供たちも育っていくってことなんですよ。

 (筆者追記)太線部分は2019年の『少年たち』で挿入されていた部分だと思います。

 

(ナレーション)では、ここで最後にジャニーさんの思い出の曲をもう1曲。昔から大好きな歌手、それはドリス・デイ。歌手でもあり女優でもある彼女が出演する映画は必ず劇場に観に行ったそうです。「彼女は歌にドラマがあるんだよね」思い返すようにジャニーさんは言いました。ドリス・デイで「センチメンタルジャーニー

 

(ナレーション)今回のインタビュー収録時間は2時間以上に及びました。最後にマイクを外した蜷川さんがジャニーさんに一言声を掛けました。ジャニーさんも真剣な顔で答えます。

蜷川幸雄)いい仕事してくださいね

(ジャニーさん)いい仕事してます。がんばります。どうもありがとうございました。ほんとに。

 

(ナレーション)演劇界の巨匠蜷川幸雄さん。国民的アイドルを次々と世に送りだしたジャニー喜多川さん。二人の巨匠のお話、いかがでしたか?俳優とアイドル、ジャンルは違いますが、若手を育て上げようという深い思いには通じ合うものがありました。円熟してもなお尽きない二人の情熱は、これからも新たな世界を切り開いていくことでしょう。

 

おわり

ジャニーさんインタビュー集 蜷川さんラジオ編③

 

前回に引き続き、パート③ ジャニーさんと戦争のおはなし

 

(ナレーション)ジャニー喜多川さんのキャラクターは日本とアメリカの二つの祖国ではぐくまれてきたものです。生まれたのはアメリカロサンゼルス。1931年、昭和6年のことでした。ご両親はともに日本人ですが、布教のためにアメリカに渡っていました。しかし、太平洋戦争が勃発し、10歳を過ぎたころ、父親の故郷である和歌山に身を寄せます。数年後の昭和20年(1945年)、戦争末期にあった空襲が今でも忘れられない体験だと言います。ジャニーさんが空襲に巻き込まれたのは、偶然の出来事がきっかけでした。

 

(ジャニーさん)僕は、和歌山新宮~勝浦のあたりに僕のおじいちゃんがいたんですよ。そこに島を持っていて、その島で温泉を経営してるわけですよね。そこで生活したんですよ、戦争中は。そこでちょうど夏休みかなんかで、大阪の方へ遊びに行ったんですよ。それでその帰りに自分の家に帰るつもりで和歌山を通って国へ帰ろうと思ったら、昼間の2時15分が最終便なんですよ。それに間に合うように南海電車に乗って行ったんですけど、切符がないわけなんですよ。証明書を学校が出してくれて、それにサインして渡すと切符が買えるわけですよ。その時に、「これはインチキだ」と駅員が言い出して、なんでかというと「インクがまだ濡れてる」からだと言うんですよ。(インクが濡れてるから)今作ったばっかりだと。そりゃそうですよ、サインはその場で書くんだから。でもそんなこと言うと(インチキじゃないと説明しようとしても)子供だからバカにして相手にしてくれない。そうこうしてるうちに、汽車が出ちゃったんですよ。それで僕は駅長室に行ってに文句言ったんですよ。「冗談じゃないよ」って1便しかないのに、明日まで待ってもいつ帰れるか分からないと。そんなこと言ってもしょうがないから、和歌山市駅の前で旅館を探して、ちょうど真ん前の角に旅館があって、そこの2階が空いてたたんですよ。それで旅館の2階(の部屋)を借りて。それでそうこうしているうちに、その夜に空襲警報があって…。

 

(ナレーション)ジャニーさんが空襲に合ったのは、和歌山市内。アメリカで生まれ育った自分が、アメリカ軍の攻撃を受けていることに割り切れない思いを抱いたと言います。

(ジャニーさん)空襲警報の時に、駅のあたりは焼夷弾でばばばばばーんとやられちゃったんですよ。僕は焼夷弾から逃げるのに必死だったんですけど、(なんとかして)和歌山城の方へ逃げたんですよ。兵隊さんみたいな人が1人来て、「坊や、だめだめ」って、そうじゃないな(関西だから)「アカンアカン」って笑。子供だから何が何だかさっぱりわかんないんですよ。それで、「和歌山城の逆の方へ走れ」って言うんですよ。でもガードみたいなのがこんなにあってね、それを越えてるときに焼夷弾がばかぼこ堕ちるんですよね。そこを潜り抜けてだーっと、とりあえず紀ノ川の方へ走ったんわけですよ。紀ノ川ということも初めてだから(和歌山に馴染みがないから)わかんないわけですよ、誰もいないところを紀ノ川のう方へ向かって、兵隊さんの言う通り紀ノ川へ走ったわけですよ。和歌山城まで行くのにすごい距離があるんですけど、人の死体がいっぱいで、みんなもう(亡くなっていて)。そこで和歌山の大空襲にあったという経験があるわけですよね。アメリカにいるはずの僕が、なんで一生のうちに一回しかない空襲に合ったか。そういうことが多いんですよ僕の人生。和歌山空襲ってのは1回だけですからね。そういう運命だったんですよ。怖い世界を歩き回って来たんですよね。

(筆者感想)この辺りのストーリーは舞台『少年たち』にも出てきますね。「そういうことが多い」とは、ジャニーさんが当初「日航機墜落事故」の飛行機に乗る予定だったということを指しているのかな?と考えています。

 

(ナレーション)終戦後、ジャニーさんはアメリカロサンゼルスに戻り、その何年か後に始まった音楽番組「Perry Como Show」をよく見ていたと言います。歌手でありながら番組の進行もこなすエンターティナーPerry Comoの声が大好きだったそうで、彼の曲なら全て好きだとか。その番組を見ていたちょうどそのころ、ジャニーさんが芸能人に接したいわば原風景となる体験をすることになります。その話はまた後程。まずは曲をお聞きいたしましょう。Perry Comoで「Papa Loves Mambo」

 

(筆者補足)ジャニーさんは戦後、またアメリカに戻り高校・大学をロスで過ごします。

(ジャニーさん)学生時代からずっと音楽専攻。ステージングからアカペラのコーラス隊、切符切りに至るまで様々な勉強をしましたね。だから、あの頃の名作ミュージカルは百二十パーセント見ているという自信がありますよ。初演前のオフブロードウェイを、わざわざフィラデルフィアまで観に行ったこともある

引用:産業としての「ジャニーズ」を科学する

昔ジャニワの時に、ちびっ子ジュニアに切符切り(入場スタンプ押)をさせたり、ジュニアの子に先輩の早替えを手伝わせたりしますが、これはジャニーさんが学生時代に学んだことをジュニアへ伝えているということだと考えています。

 

(ナレーション)終戦後、ジャニーさんはアメリカロサンゼルスに戻り、現地の高校に通い始めます。その数年後、歌手の美空ひばり笠置シズ子といった日本からアメリカ公演に来た芸能人と接したことが、芸能生活に関わった始まりだと言います。

(ジャニーさん)終戦後またアメリカに戻りますよね。アメリカに戻った時に、うちの親父がロサンゼルスで牧師さんだったので、その教会があるわけですよ。それが終戦後、その教会を利用して日本の美空ひばりちゃんとか田中絹代さんとか勝太郎さん、京マチ子さんとか、いろんな人がうちの教会を使って(公演した)、劇場がないもんですから、終戦後来たわけですよ、どんどん。それが、その頃は1950年だとおもいます。それからぼんぼんぼんぼん来て、一番最初に来たのは田中絹代さん。

蜷川幸雄)そうですね、アメリカ帰りがちょっと有名になりましたもんね。

(ジャニーさん)そうです。「ハロー」っていってね。(笑)

蜷川幸雄)投げキスして降りてきたりとかね

 

(ナレーション)ジャニーさんは日本からアメリカに来た芸能人たちが、ロサンゼルスで講演を行う際、通訳を含め色々お手伝いをしたそうです。その時、はるばる海を渡ってきた芸能人たちの力になろうと、自分の利益は考えなかったと言います。

(ジャニーさん)その時にやっぱり我々がお手伝いしないと、アメリカに来た意味がないんですよね。わけもわかんなくね、ドルも貰えないし、そのころぜんぜんもう、アメリカに来るだけのギャラですよね、言い換えればそんなもんだったんですよ。1950年のときですよ。アメリカに行くってことだけで大変だったんですよ。宮武さんていう写真屋さんがあるんだけど、そのと「アメリカに日本人が来たら、うちら最高に何か(協力できること)やろうね」と話していたことがあるんですよね。僕も子供だったから、(芸能人の方の写真を撮って)1枚50セントで会場で売るわけですよ。飛ぶように売れたわけですよ。それを芸能人の人に「はい、これ売上」って渡したら、「いやーそんなの1銭も貰えない」とみなさんおっしゃる。これは、僕が貰うわけにいかない、これはあなたたちの肖像権で買った売上だ、お金だということで(受け取ってもらって)。1枚50セントだけど3枚なら1ドルで売れたわけですよ。だから、子供のころからそういう仕事をしているわけですよ。自分のところの劇場で。無理やり(お金)持って帰ってもらったんですよね。あなたたちの写真でしょ。大変な価値があるんですよねって。

 (筆者補足)ジャニーズが肖像権にうるさいのは、このあたりの考えが根底にあるからだと言われています。

 

(ナレーション)ジャニーさんが、ロサンゼルスから日本に帰国したのち1962年頃に30歳を過ぎてから映画「ウエストサイドストーリー」と出会います。

蜷川幸雄)ジャニーさんは、一番初め自分の事務所というか、タレントたくさん集めてやろう思ったのはいくつぐらいですか?

(ジャニーさん)たくさん集めようとは思わなかったけど、一番最初あれを観に行ったんですよ「ウエストサイドストーリー」を、銀座に。それを観に行ったときに「うわぁかっこいいな」って。その時に「オレもこういうのをやりたいな」と思った。ふと横を見たら日劇があるんですよ。日劇のダンサーなわけ。あれは何だろうと思ってねぇ。50人ぐらいの男の子で、こんなにかっこよく踊れるの。ウエストサイド観たすぐ後ですけどね。っていうことでみんな集めて

蜷川幸雄)募集したんですか?

(ジャニーさん)いや、みんな集めて、その中にうちの子役の子もいて。いずれにしろ子役の子はすぐ終わっちゃうんですよ。だから芸をつけないといけないってことで、みんなで集まってやったんだけど。やっぱり、忙しい売れっ子ばっかりだから、みんな次から次から辞めていくんですよ。そこで残ったのが何にもやっていないジャニーズになったわけですよ。

 

(ナレーション)ジャニーさんに事務所を立ち上げる決意をさせた映画「ウエストサイドストーリー」その中でも一番好きなのは「COOL」という曲なのだそうです。ダンス曲としても最高なのだと説明してくださる表情はまさに真剣。本当に好きなんだという思いが伝わってきます。この曲がなければジャニーズ事務所を立ち上げることはなかったかもしれませんね。映画「ウエストサイドストーリー」から「COOL」

 

(ナレーション)ジャニーズ事務所が立ち上がり、いよいよ芸能界へ参戦。そこからジャニーさんのスター育成が始まります。ジャニーさんがアイドルを育てる上での哲学とは?

(ジャニーさん)アイドル作りって人間作りですよね。人間作りは難しいと思う。それだけにやりがいがある

蜷川幸雄)いい子とだと思って取ったら、残しといたら、ちっとも成長しない子もいるでしょ?

(ジャニーさん)いない!!

蜷川幸雄)いない?えぇ!?

(ジャニーさん)ご存じのように、30年も50年もやってるけど、僕は失敗はないと思うよ。やっぱり人間を扱ってるから。それは間違いないですよ

蜷川幸雄)やっぱり人間を見るときに、ジャニーさんどの辺を見る?

(ジャニーさん)どの子だってみんな人間の美しさとかがあるんですよ、それ相応に。おこがましい言い方だけど

蜷川幸雄)あっそう

(ジャニーさん)そりゃそうですよ、人間の子だもん。だから、うちは、あの子たち今の子たちは絶対それを受け継いでくれると思うけど、でも大切なことですよね

蜷川幸雄)どっちかっというと捻くれている子がいいわけ、僕はね。問題児がいいんですよね。なんか、元ヤンキーじゃないけど

 (筆者補足)前半部分は、2019年の舞台『少年たち』で「ジャニーさんの声の挿入」で使われていた部分だと思います。

 

(ナレーション)蜷川さんの印象に残ってるのは俳優の藤原竜也さんだと言います

蜷川幸雄)藤原くんなんて中学生なのに眉毛反り上げていましたからね。山に(地方に)住みながら。

 

(ナレーション)蜷川さんは俳優を育てるとき、気づいたことは事細かに指導すると言います。

蜷川幸雄)後は厳しいダメ出しですよね。僕もあと何年いい仕事できるか分からないから、今のうちに細かくやろうと思って、ここ何本かすごく細かいですね全員に対して。みんな若返ったって喜んでますけどね。それは大スターだからと言って容赦なくダメ出しはする

 

(ナレーション)スター育成についてジャニーさん独自の哲学がある一方、若手に接するとき譲れないポリシーもあるようです。

(ジャニーさん)理屈っぽいジジイみたいなことは言わないですけどね、かっこよく生きたいから。「お前らねー、俺が若いころはねー」とかは言わないですよ、絶対。絶対昔の話はしないですよ。当然みんなそんな話聞いたことないですよ。伝えたいことは今現実にいろいろやってる、これが伝えたいことですよね。でも自分の言葉で伝えたってしょうがないですよ。なんで戦争から生き残ったのがオレかなんかな関係ないよね。自分が事実を知っているからこそ、いかにそれを説得するか、教えるかって考えられないもんね。僕は自分の作品を作るので精一杯。だからおつりがないんですよね、全然。貰いっぱなしで。

 (筆者感想)思いは全て作品に詰め込んでるということですかね?だからあんなにトンチキに笑 思いが詰まりすぎて思考が追い付かないんですよね。隙あらばシェイクスピアつっこんでくるし笑

(ナレーション)ジャニーさんは最近の若者について、こんな感想も持っています。

(ジャニーさん)今の若い子はねぇ、昔はよかったねぇとかいうのは嘘。昔が良かったということはありえない。今新しいどんどんどんどんよくなってる。だからねぇ、みんな覚えるのも早いし、だって僕自身がツーステップ踏むだけで大騒ぎだったもん。それと同じでアイススケートもおんなじこと。「ちょっとみんな、アイススケートの練習しに行こう」っていったら「えぇー」って。「みんなが滑れるか見たいんだから」って。僕が「こうやって滑るんだよ」って教えるの。でも30分ぐらいになると、そこで滑っているのよねー平気で。それで1時間ぐらいたつともう大変。こっちなんて逆に手すりでこうやって。そんなもんですよ、若い子の力ってのはすごい。こっちは教えるつもりで行ったら、教えられるのよ。あとは(子供たちで)全部自分でできる。

 (筆者感想)ジャニーさん、ジュニアと一緒にゲーム機使ってゲームして、ジュニアにぼこぼこにされたエピソードもありましたね。子供たちが遊んでる様子(表情)をチェックしているといわれていますが、どうなんでしょう

 

(ナレーション)蜷川さんも最近の若手にはいい素質を持った人が多いと感じています。

蜷川幸雄)僕だっていい演劇人を作るためには、今の30歳31歳ぐらいがずらっといるんですね。いい俳優が。小栗旬くん・藤原竜也くん・綾野剛くん・いまでも即名前が出てくるのはだいたい31ぐらいですよ。彼らが演劇的な経験を積んで、きちっと日常的なセリフも言え、シェイクスピアの古典的なセリフも言える俳優を育てる。それを早くやっちゃわないと、伝えらんないし、エネルギーがかかるわけね。語尾が違うだろ、半音ずれてるだろ。半音ずれは何だ!日常生活をそうやってるのかとか、細かいことを指示しながら、時に話は私生活に及ぶわけだ。TVでインタビューされてるのに、生意気な態度をしてると、「そんな態度でTV出るなよ。失礼だろお客に、視聴者に」例えばそういうかかわりを持ちながら、言ってみれば、日常生活の何かが現れたりすることだってあるじゃないですか、人間の素質含めて。例えば、集団でやってる仕事だから、稽古場をムスッとした顔して入ってくると「アイツなんだ、何かやなことあったのか、この芝居気に食わないのか」。少なくとも心ある人だったら、その俳優がどうやって稽古場に入ってくるか見ているわけだから、理由なく単なる前の日に犬かなんかに噛まれて、例えばだよ。不愉快になって入ってくるなと。ちゃんとその日の仕事はみんなが気持ちよく仕事できる態度を選んでで入って来いと。そいうことから教育しないかぎり、一人の俳優って育たないわけだよ。だから、すごく手間暇かかる。ほんとにお水をあげたり、栄養あげたり、ご飯を食べない俳優にはご飯を食べろと。一緒にご飯を食べたり、うどんをわけっこしたり、そうしながら才能あるなってあるやつを育てていくわけ。手間暇かかるわけ、それをけなされると、このやろう殺してやるっと

 

(ナレーション)蜷川さんの俳優を育てていきたいという情熱は、並々ならぬものがあります。

蜷川幸雄)お前らは片手間に批評してるかもしれないけど、オレたちは一発勝負でそれがダメだったら職が無くなると。あるいは再起不能になるかもしれない。それだけの思いで劇評を書くのかとボクは言うわけ。初めてやるボクらと同じように初めて見る演劇として舞台を見ろと。前線にいる俳優は、弾を直接浴びるようなものですから、演出家なんて後ろにいるからいいけど。その時は真っ先に飛び出して、ちゃんと飛び出してくる銃弾を受けてあげなきゃね。そういう関係の中で、一人の俳優を育てていくというのは片手間じゃできないよ。それでなんとかして、早く2,3年のうちに死ぬ前に全部伝えて、自立できる俳優をたくさん残しながら、ボクが考える演劇ってものを受け継いでくれるといいなと思ってる。もちろん絶対だとは思ってないですよ。思ってないけれど、そういうことの1割や2割が通じて、その1割や2割は世界に通用していることもあるんだから、正しいこともあるだろうと思うわけね。

(ジャニーさん)そうですよ。蜷川さんがおっしゃることは我々も非常に勉強になるところで、だからその通りですとしか言いようがないですね。

 

(ナレーション)蜷川幸雄さんとジャニー喜多川さん、お話を聞いているとお二人ともそれぞれ自分が育てた俳優やアイドルたちにも演出家としての方法論を伝えていこうとしています。いったいなぜなのでしょうか?

 

(ジャニーさん)タレントが自分で、まぁ錦織みたいに自分で演出したりするのが好きなんですよ。やっぱり。どうしても、自分たちでやらすと嬉しがってやるんですよね、みんな。だって僕が一人でいろいろやると大変ですから、自分で作るものは自分でやりなさいってことですよね、はっきり言えば。

蜷川幸雄)でも現実問題としては、ジャニーさんがあれだけやると、手出しができる演出が居なくなりますね。実際はうまく細かくできてるの。照明の入るきっかけとか、集団を統一していく力とか、照明に対するダメ出しとか、振付に対するダメ出しとか、セットに対するダメ出しとか、やらなきゃいけないことは山ほどあって、それを全部やってるから、僕みたいな演出家でもジャニーさんの力量にちょっと追いつかないなぁ

(ジャニーさん)そんなことないですよ(笑)

蜷川幸雄)手出しできない。集団も長い間やってるとリーダーみたいなのが出てきて、嵐なんかにも聞くんだけども「誰が演出なんかしてんだぁ?」って聞くと「だいたい、誰が一番発言力強いかな?」とかって、自然にやるべき人が何となく現れてくるんだよね。一つはジャニーさんのテクニカルな後継者がいないこと、技術ばっかりじゃなくて人間的なすべてがかかって統一されていくんで、そういったすべての事が、小さな信頼からスタッフの信頼までもを担わないと、こんなにおおきな舞台だと、きちっとしたテクニックがないとできないですよね、フライングを使っていいのかとかいう予算の問題とか、レールで移動しているとかいろんなことがあって、あそこでもうあんな早くフライング使っちゃうんだとか、普通だったら大事にとっとくわけね、見せ場にしようと思うから。でも慣れてるから、別にジャニーさんにとって目新しいことじゃないわけだ。そうするとのっけのほうのもったいないところで、びゃーってあげちゃうからさ、どうすんだ後の山場は。そこの全体を統一する力を持っている人がジャニーさん以外いないんだよ。だから若い人はちょっと太刀打ちできない。そして自分たちでやらせるってことは、一番文句も出ないし、自分たちで責任取らなきゃならない、そしてジャニーさんがサジェスチョンだけ与えてればいいってふうにしてんだけど、、、死ぬまで口出すだろうね。

(ジャニーさん)まぁ悲しいけどそうだね。我々どうしても口出さないわけにはいかないんだけど。みんな嫌うかもわからないけど、でもまぁ生きてる限りはそうせざるを得ないっていう気持ちはありますよね。それは自分に与えられたところだから、自分で責任持たされた範囲は自分でやるってことは、当たり前のことですよね。

 

(ナレーション)蜷川さん、ジャニーさんの思いの深さに改めて脱帽です

蜷川幸雄)貴重な存在なんだよ、天然記念物「トキ」みたいな人ですよね

(ジャニーさん)ほんとにねー天然記念物みたいなりかけつつあるんです。

蜷川幸雄)あれだけ若い人を育てて、いろんなことを伝えていくって中々あまりいないからね。

 

(ナレーション)さて、ジャニーさんは今後も舞台の演出を若手自身でやるように言い続けるのでしょうか?

(ジャニーさん)(自分で演出を)しなきゃしょうがないですけれど、でもいま若い子が、うちで育でてる関西ジュニアの子たちが、ボクが日生劇場で彼たちに全部自分でやれっていったんですよ。自分でやれって。一切手を貸さない。教えないといけないから。でも、こっちもいたたまれなくなってきて、手を貸すこともあるけども、でもやっぱり関西の子たちは今回はいい経験だなと思いますよ。そんなことやらしたの始めてだから。僕も年だから。おじいちゃんですから。

 

 

(ナレーション)自分の持つ情熱や方法論を後世に伝えたい。それは蜷川さんもジャニーさんも同じ思いです。

蜷川幸雄)危機感無かったらバカですよ。この腐ったような演劇界や芸能界や日本で。

(ジャニーさん)危機感、、、さっきも申し上げたとおり、戦争の世界だけじゃないのよね、それをひしひしと感じただけに、それが生涯繋がってきているわけですよ。

 

(ナレーション)芸能界の第一線を走り続けてきたジャニーさん。そんなジャニーさんのことを蜷川さんはどう思っているのでしょうか。

蜷川幸雄)僕が言うのもおこがましいけど、ジャニーさんは大変だったと思うよ。つまり日本には今までなかった形態を生み出して、そしてあんだけ持続的にタレントを育てて、スターを育てていくっていうのは、それはもうどこに地雷があるかわからない、もう何個か踏んでるだろうと思う。そういう中で、単独で出てきてる人だからさぁ、ほんとに、周囲は銃弾がばちばち飛んでくる中を走り抜けた人だと思う。それはなかなか自分で語らない人だと思うけど、やっぱジャニーさん大変だよな思うけど。こういうジャンル、これだけの少年少女の欲望を組織できるちゃんとした世界を作ってるわけだから、それはいろんな屈辱的な思い、喜びもあるだろうけど、大変な思いをして走り抜けたんだと思いますね。そう意味ではボクは尊敬に値する人なんだと認めていますけどね。

 

(ナレーション)ジャニーさんはこれまで何を思い、何を信じて演出家としての道を歩んできたのでしょうか。

(ジャニーさん)「信念があるからオレはやってるんだ」っていうことは嫌いですよね。しんどいからできると思うんですよ。理屈っぽいけど。「これしんどいことだな」と思ってるからこそできるわけで、ほんとにいつのまにか楽しみか喜びになっちゃうのね。芸能界ってところはそういうところですよね。自分はいつか(スターになる)なんて言って。今出てる子なんかでも、誰もバックだけで生きていこうとは思わない、意欲があるってことはみんな知ってるわけですよ。それは一般社会の仕事だって同じことだと思うんですよね。そりゃ、いつかは自分は実るだろうって気持ちが当然あると思うんですよ。芸能界はそれ以上に体をもって表現していく人間ばっかりだから、やっぱりタレントは一生っていうのがあるから、このままポーンと(育てている子を)捨てる気は全然ないですよね。彼らが生きる限りは絶対やっていかないとという信念はありますよね。信念はなんなんですかね?根性ですかね?そのへんが分からないですけど、やっぱり楽しいですよね我々は。一日だって辛いと思ったことはないです。みなさんも楽しみが返ってこないとしょうがないと(やってられない)思うんですよね。僕はそう思います、正直に言って。自分のやってることに辛いと思ったこととか、悲しみとかないんですもん。(子供たちが)やってくれることはすごく嬉しいことだと思う。みんなそれぞれ育っていきますからね、みんなそれぞれ達成した時が嬉しい。毎日が達成ですけれども、そういう日々がすごく自分の中で、皆の中に(達成した経験が)あるっていうのはいいことですよね、嬉しいことですよね。芸能界そのものが、我々に与えられた宿命であり、それがすごい良いことだと思う。本当に芸能界は素晴らしいですよ。アメリカはみな芸術家ですからね。芸能界は。日本の発想を考え直さないといけないと思いますよね。位が一番下なんですって?芸能人は、昔は

蜷川幸雄)江戸時代に歌舞伎役者は1匹2匹って数えられたんですもんね。

(ジャニーさん)それはボクはおかしいなと思う。ボクは全然ないから、あたまからそんなこと考えもしないから。常に芸能界の人は胸を張って生きる人ばっかりだから。芸能人ってことを、うっかりすると日本人はそう(身分が低いと)考えていたかもわからない。僕はアメリカ(アメリカの視点)から見てるから。すごい劇場を借りて「芸能人に出てもらう」っていう発想から来てるから。アメリカの考えがあるから、そんなこと(芸能を低く見る)あったらいけないことですよね。

 

(ナレーション)そして、大切な舞台を見に来てくれるお客さんをジャニーさんどのように感じているのでしょうか?

(ジャニーさん)モノが始まったら、お客がいかに喜ぶかを見るのよ。この1月にやるあれも、もし1分なりとも気に食わなかったら、その3時間の中で1分なりとも気に食わなかったらお金を返すってはっきり言ってるんですよ。お客に対しては1分なりとも無駄なことをしては申し訳ないと思う。だから絶対に100%はあたりまえ。お客に満足してもらうように作るのが我々の商売ですから、それを成立させないといけない。一人一人がみんなその精神でやってるから、1分なりとも無駄にしないで出てる(舞台に立ってる)わけですから。(僕は)必ず言うんです「1分無駄にしたら、罰金払わなきゃいけないよ」って、そういう事です。お客はお金を払ってきているんだから。

 (筆者感想)事務所へ、ジャニアイ・ジャニワの円盤待ってます

 

(ナレーション)ではここでジャニーさんの思い出の曲をお聞きいただきましょう。今回挙げていただいたラインナップの中で、唯一ジャニーズ事務所のアイドルが歌った曲です。元々はとてもアップテンポの洋楽なのですが、スローにアレンジしたお気に入りの曲なのだそうです。あおい輝彦で「時計を止めて」

 

④へつづく

 

ジャニーさんインタビュー集 蜷川さんラジオ編②

 

前回に引き続き、ジャニーさんが2015年に蜷川さんと対談した『蜷川幸雄のクロスオーバートーク』より

 

(ナレーション)蜷川さんは20年ほど前から、舞台に出る出演者をジャニーさんに紹介してもらっていると言います。その第一号は男闘呼組のメンバーだった岡本健一さん。1989年のことでした。続いてのアイドルは、SMAP木村拓哉さん。唐十郎さんの作品『盲導犬』の出演者を探していた蜷川さんの頼みを聞いて、ジャニーさんはSMAPの木村さんと中居正広さんの二人を蜷川さんのもとへ連れて行ったと言います。

 

蜷川幸雄)若い時から、何か困ると若い良い俳優が欲しい時に、ジャニーさんところへ誰かいい人紹介してよって言うと、ジャニーさんが何人か連れてきたり、情報をくれるわけですよね。それでずいぶんお世話になりました。若いころですよ。ジャニーさんもこんな演出家になってない頃ね、まだ。

(ジャニーさん)木村拓哉そうじゃないですか?

蜷川幸雄)そうそう。中居君と木村くんを連れてきてね(笑)そんで中居くんが「蜷川さん、ボクを選ばないで木村選んだでしょ。未だにボクは恨みを持ってますって」(笑)中居くん言ってましたけど。唐十郎さんの『盲導犬』っていう芝居でね。

(ジャニーさん)ハハハ

蜷川幸雄木村拓哉がね、真夜中にボクが六本木を一人で交差点を渡ってたんですよね、そしたらさぁ「みっともねーぞ、そこのおじさん」って

(ジャニーさん)大爆笑

蜷川幸雄)ふと見たら、木村くんが手を振って「夜中、男が一人で歩くんじゃねーよ」って

(ジャニーさん)大爆笑 お前も一人じゃねーか

蜷川幸雄)そん時は(木村くんは)なんかスポーツカーみたいなのに乗ってたんですよ

(ジャニーさん)あー(そういうことか)

蜷川幸雄)ずいぶん若いころ(ジャニーさんに)お世話になったんです。

 

(筆者感想)蜷川さんは後に木村くん以外の役者で『盲導犬』を演出するのですが、「木村拓哉以外のキャスティングは失敗だった」 と言ってしまうほど、当時の木村くんの演技をほめています。木村くんは当時つらくてトイレで泣いていたりするのですが、、、

 

(ナレーション)蜷川さんは忘れていましたが、ジャニーさんは少年隊の東山紀之さんも蜷川さんと引き合わせたことがあると言います。

 

蜷川幸雄)東山くんがね「蜷川さん、ボク会いに行ったの覚えてる?」って、いやぁ知らないって「ボクだって面接に行ってるんですよ!!」って

(ジャニーさん)そう、あるある。うちには子供がいっぱいいるから、たくさんありますよ。前は(昔は)必ず9人ぐらい連れて行って

蜷川幸雄)ちゃんといろいろどの子が蜷川さんの芝居に合いそうかな?とか言いながら選んできてくれる。ずいぶんお世話になったんです。

(ジャニーさん)いやいや、お世話になったのがこっちです(笑)

 

(ナレーション)こうして、若いころからジャニーズのアイドルたちと深く関わってきた蜷川さんですが、常々抱いていた思いがあるそうです。それは、ジャニーさんに紹介されて起用したV6の森田剛さんを見て感じたことだそうです。

 

蜷川幸雄)でもねぇ、僕ね、感心しているのはね、ジャニーさんのところは懐が深いね。森田くんとかさぁ、ああ言う変わった子をちゃんと

(ジャニーさん)あぁ、顔だけでは選ばないってことですね(笑)

蜷川幸雄)あの変な、髭が生えた(笑)

(ジャニーさん)ハハハ。遂に言っちゃった(笑)

蜷川幸雄)お前野ネズミかって。よくジャニーズ事務所にいられるよねって。「全然何も言われないです(森田)」って言ってたけど、そういうところはね、個性を見ながらね、ちゃんと在籍させているというか、面倒見てるところが偉いですね。

(ジャニーさん)もうね、やっぱりね、人間はそれぞれみんないいところがあるの。これは不思議なことに。だから、マッチなんかそうですよね。マッチなんか写真見せたって「何この子?」って。だけど、何て言うのかな?やっぱりハートが伝わってくるんですよね。彼はホントに気持ちがありますよね。

 

(筆者感想) 剛くんずっとかっこいいのですが?と思っているのですが、、、、森田剛くんが演劇の道へ本格的に進む流れになるのは、ザ少年俱楽部プレミアムで国分太一くんとの対談で「演劇がしたい」と打ち明けてからのようです。太一くんから「事務所に演技をしたいって言えば?」の問いに、剛くんは「言えない、太一くんから言って欲しい」などを言っているのですが、その後無事に事務所と分かり合えたのか、たくさん素晴らしい舞台を作り上げます。宮本亜門さん演出の『金閣寺』ではNY公演も成し遂げました。

 

金閣寺-The Temple of the Golden Pavilion- [DVD]

金閣寺-The Temple of the Golden Pavilion- [DVD]

  • 発売日: 2012/02/15
  • メディア: DVD
 

 

(ナレーション)そして、2011年から2012年にかけてギネス世界記録に「最も多くのコンサートをプロデュース・最も多くのチャートNo.1アーティストをプロデュース・最も多くのチャートNo.1シングルをプロデュース」の3部門に認定されます。

 

(ジャニーさん)あのね、ギネスはやっぱり世界ですからね。日本だけではないんですよね。だからそれは大事にしたいと思います、はっきり言って。世界には彼ひとり、ボク一人になるから。世界を対象にして生きるべきだなって。マイケルジャクソンは7部門あるから(取っているから)、ボクも7部門取りたいと思ってる。

 

(ナレーション)ジャニーさんは、アイドルとして芸能界で成功するための一番の資質は「真面目なこと」だと言います。

 

蜷川幸雄)みんな真面目ですね~。真面目であるってことは特別な教育してるんですか?

(ジャニーさん)いやいや、真面目じゃないと芸能界やっていけないからですよ

蜷川幸雄)確かにそうだよね。そういう子が少ないんだよね

(ジャニーさん)言っちゃ悪いけど、タレントはそういう意味ではみんな成長してますよ。だけど、それに携わっている人間が、はたしてタレントの気持ちをわかってやってるか、ということなんですよね

 (筆者感想)これは手越くんのときにも書いたマジメダイジの話です。

 

(ナレーション)話題は最近の若者たちへと移ります。

 

蜷川幸雄)最近の若い男の子の顔つきがみんな似てるってことはないですか?

(ジャニーさん)あっっ!!なんでわかるんです?

蜷川幸雄)そりゃぼくも(顔つきが似ていて)わからないから

(ジャニーさん)これ、髪の毛!!

蜷川幸雄)髪の毛?

(ジャニーさん)髪の毛はこうしてみんな同じ

蜷川幸雄)同じですよね

(ジャニーさん)坊主にしちゃえよホントに

蜷川幸雄)ほんとにわけがわかんなくなっちゃうんですよね。どれが誰かが

 

(ナレーション)なんとジャニーさん個性を際立させるためには坊主頭にするのが良いというのです

 

(ジャニーさん)何の特徴もない。だからやっぱり、女の子じゃないから、ほんとに坊主にしてもいいんですよ。昔のうち(ジャニーズ事務所)は、東山にしろマッチにしろ、マッチは何でマッチって言ったか知ってます?マッチ棒みたいでしょ?その通り。僕はすごく坊主の子はいいなと思うんですよ。そのままの形が見えるから。髪の毛でごまかしてるのは、女性ならともかくも、男が髪の毛でごまかすのは…

蜷川幸雄)みんな似てますよね

(ジャニーさん)みんな似てる

蜷川幸雄)細いしね。「えんぴつ」や「割りばし」って呼んでますよ。

(ジャニーさん)それはね、スタイルが良くなったんでしょうがないけども。う~ん。髪の毛だけはなんで同じようにしなきゃならないの?

蜷川幸雄)それはジャニーさんところのが問題(原因)じゃないの?(笑)

(ジャニーさん)いや!違う!髪の毛は、髪の毛は坊主にしたい。坊主はすごくかっこいい、みんな。だから僕がアメリカに行ったときに、男闘呼組にハチマキをやらして、そしたらNYで「これかっよいい」ってなって、それが『KARATE KID』なんだよ。マネして。『KARATE KID』ってアメリカで映画でも流行ったけど、すぐコピーした(された)。やっぱりにっぽんのあれは(ハチマキ)かっこいいって。

 (筆者感想)KAT-TUNの上田くんも、入所オーディションの時にジャニーさんから坊主を褒められています、坊主は本当に好きらしいです。

 

(ナレーション)そしてお話は人気絶頂の嵐にも及びます。

蜷川幸雄)嵐なんて、みんなキャラクターあるじゃないですか!?

(ジャニーさん)キャラクター、髪の毛短くしてるけど、おんなじ髪の毛の長さで…どう思います?

蜷川幸雄)松本くんと二宮くんは違うじゃないですか?

(ジャニーさん)(違うと感じるのは、髪が)短いから!!短いうえにおいて、長髪じゃないからね

蜷川幸雄)背の大小もあるし

(ジャニーさん)言っちゃ悪いけど、やっぱり今の高校生以下は凄いですよ!!スタイルが!!だから、そういう比じゃないですよ。高校生、中学生怖いですよ。スタイルがめちゃくちゃいい

蜷川幸雄)足長いしね

(ジャニーさん)足は長いし、それをスタイルはいいっていうんですけど。昔、アイドルっていうのは背が小さいほどよかったわけですよ。

蜷川幸雄)あっ!!ホント!?

(ジャニーさん)そうですよ。(背が)高かったらアイドルにならなかったの。だからうちは、永田英二(ジャニーズ一期生でフォーリーブスの初期メンバー)は急に背が高くなっちゃったからカットしちゃった(メンバーから外した)ぐらいすよ。永田英二さんの認識では児童福祉法により夜のレギュラー番組に出演できないから脱退の道に進むしかなかったと言っています。それで、モンキーズっていましたでしょ?モンキーズはすごい仲のいい友達だけど、みんな小さいんですよ。なんでかって言うと、ジョッキーやってたんですよ。だからアイドルになれたんですよ。だけど、いまは時代がそういうふうに(スタイルが良く)なってきているから、今は今でかっこいいなっていう事なんですよ。その頃はやっぱり、小さいほどかっこよかったんですよ。だから僕なんてかっこいい方なんですよ(ジャニーギャグ)

蜷川幸雄)ははは。へ~~~~

(ジャニーさん)ほんとにね、小さいことを自慢したくらいですよ。1メートル70超えると、まぁ長身と思われたぐらいですよ

蜷川幸雄)ダメなんだ

(ジャニーさん)だけどそれは昔の話、今はうちの子なんか全部見上げる子ばっかり。時代時代にあるん(流行りが)ですよ。っと僕は思います

蜷川幸雄)最近「出たい」と言ってよく稽古場に見学に若者が来るんですけど、だいたい背が高くて、痩せてて、顔はみんな同じ。ですから、差別化できないんですよね。ほんとにおもしろくないですよ

(ジャニーさん)差別化というか、キャラクター(個性)が出ない

蜷川幸雄)(個性が)出ないですね

 

(ナレーション)ここでジャニーさんの好きな曲をお届けしましょう。「ジャニーさんの好きな曲はなんですか?」そう初めて聞いたとき、一瞬じーと考えて困ったように言いました。「音楽を提供するプロという立場としては、好きな曲を答えずらいです。それからしばらく話をした後で、ジャニーさんはふっと思い出したように笑いながら言いました。「本当はたくさんあるんだよね、好きな曲」すぐには答えられなかった分、音楽に対する強い思いが伝わりました。ジャニーさんの好きな曲、たくさん紹介したいと思います。先ほどお話に出てきたモンキーズ。そう、あの有名な曲を歌ったグループです。"Daydream Believer"

 

③につづく

ジャニーさんインタビュー集 蜷川さんラジオ編①

 

私はジャニーさんの作品が好きで、作品の理解を深めるためにジャニーさんのインタビュー記事などを集めたりしていたので、このブログで気になったコメント等を紹介していこうかなと思っています。ただ、ジャニーさんってあまり自分を語らない方なので、わからないことが多いんですよね……

 

ジャニーズ事務所は、ジャニーさんと野球少年たちが、雨が降って野球の練習が出来ないので、『ウエストサイド物語』を観に行こうということなって、その結果みんな映画に感激してしまい、芸能界を目指すっというのが設立のストーリーなんですが、、、、実際は、ジャニーさんは意図的に子供たちにウエストサイドを見せて、芸能界を目指させたのではないか?と言われていたり(野球のチームの名前を「ジャニーズ」と「シャーク(ウエストサイドに出てくる非行グループの名前)」にしていたり)、アメリカ軍の仕事の一環で朝鮮戦争による戦争孤児に英語を教える為に板門店に出向いて英語教師をしたり、、、韓国語もお上手なようで、昔カミセンと一緒にロスへ行ったときに入った韓国料理店で、韓国語でオーダーをしてカミセンをびっくりさせたエピソードもありました。初代ジャニーズが野球をしていた野球大会のスポンサーには力道山がいて、そのつながりでアントニオ猪木さんを紹介してもらい、2000年にタッキーとアントニオ猪木の試合に繋がったり、ジャニーさんとマイケルジャクソンはお友達だったとか、、、いきなり大物がすっと現れるので、よくわからなくなるんですよね。まぁほんと凄い方です。

 

人物も作品も謎?が多いのですが、今回は2015年1月に放送された『蜷川幸雄のクロスオーバートーク第1回ジャニー喜多川』の文字起こし

 

蜷川幸雄のクロスオーバートーク第1回ジャニー喜多川

シリーズ第1回は、ジャニーズ事務所の社長であり、演出家のジャニー喜多川さん。

フォーリーブスに始まり、SMAP、嵐といった国民的アイドルを50年にわたり、育てているジャニー喜多川氏の素顔に、蜷川さんが迫ります。ジャニーさんの思い出の曲もたくさんおかけします。

 

(ナレーション)蜷川幸雄のクロスオーバートーク第1回ジャニー喜多川。この番組は演出家の蜷川幸雄さんが一つの世界を極めた巨匠を尋ね、極意を聴くインタビューシリーズ。1回目の今夜はジャニー喜多川さんです。ジャニー喜多川さんと言えば、SMAPや嵐といった日本を代表するアイドルたちを世に送り出したジャニーズ事務所の社長です。また、ジャニーズ事務所のアイドルが出演する華麗な舞台を作り上げる演出家でもあります。蜷川さんとジャニー喜多川さんの親交は50年にも及ぶのだそうです。

 

(ナレーション)インタビューを行ったのはある雨の夜の劇場。その日の舞台では、ジャニー喜多川さん演出のミュージカルが上演されていました。満員の客席の後ろで蜷川さんはジャニーさんと肩を並べて、舞台を見つめていました。蜷川幸雄さん79歳、ジャニー喜多川さん83歳。舞台からこぼれるほのかな光に照らされて、時折言葉を交わす二人が会うのは3、4年ぶりだとか。インタビューはその舞台を見た後始まりました。

 

蜷川幸雄)会うのは久しぶりですよね。

(ジャニーさん)会うのは久しぶりですよ。

蜷川幸雄)3,4年ぶりぐらい

(ジャニーさん)お忙しいもんね。

蜷川幸雄)なんかジャニーさんところが稽古場に教わりに来たときありましたよね。MASKを素早く変える方法を教えてくださいって。

(ジャニーさん)<笑う>

 

 

(ナレーション)インタビュー前に二人の巨匠が見ていたのは、ジャニーさんが作・構成・演出を担当したミュージカル『DREAM BOYS』で、およそ1か月分のチケットが即日完売したという大人気舞台でした。

 

蜷川幸雄)今日の舞台って何日間ぐらい稽古してるんですか?

(ジャニーさん)短いですよ~。

蜷川幸雄)へぇ~どれぐらい?

(ジャニーさん)どれくらいだっけ?3週間ぐらい?

蜷川幸雄)わぁ~~~短いね!!じゃあ、あれだけの曲と振りも?

(ジャニーさん)3週間といえども、3週間で全部やらなきゃいけないし、音楽もやらなきゃいけないし…

蜷川幸雄)ふふふ(笑)まぁ大変だろうと思った。それから、あれだけの転換をあれだけスムーズにやらなきゃならないし

(ジャニーさん)(ジャニーズの転換は)速いですよぉ~

蜷川幸雄)速い!速い!

(ジャニーさん)セットの移動なんかはこっち(演出側)が考えて

蜷川幸雄)事前に全部できてんですか?

(ジャニーさん)ご存じの通り、劇場空いてからでないとできないので、だから劇場空くのはやっぱり何日か前なので

蜷川幸雄)何日間くらい舞台で稽古してるんですか?

(ジャニーさん)舞台の稽古っていうのは1日だけです

蜷川幸雄)えぇ(驚)

(ジャニーさん)我々はね、もうね、まぁ正直に言ってみんな生徒です、学生です。だから学校から帰ってきて、8時までに(引き)あげないといけないんですよ

蜷川幸雄)それ(労働基準法)があるんだ

(ジャニーさん)だから、5時にしても6時(スタート)にしても、(8時まで時間がないので)2,3時間が勝負なんですよ

蜷川幸雄)夜の稽古なんて出来ないわけなんですね

(ジャニーさん)できたとしても、もうすぐ帰さないといけないから。8時までに帰さないと、5分でも遅れると事務所がうるさいですからね~

 

(ナレーション)ここでジャニーさん思い出の曲をお届けしましょう。世界各国に多くのファンを擁するスターを抱えるジャニーズ事務所ですが、50年前にも全米1位を獲得したかもしれない1曲があったそうです。1964年にレコードデビューしたジャニーズ事務所の初代アイドルジャニーズは、2年後の1966年に本格的なダンスレッスンをするためにアメリカに渡ります。その時、ジャニーさんの友人でもあるドン・アドリシ と ディック・アドリシ兄弟からジャニーズが歌ってはどうかと、彼らが作った曲を渡されます。その曲を聞いた瞬間ジャニーさんは「絶対売れる」と確信したそうですが、結局話が頓挫し翌年別のグループが発表します。それがThe Associationが歌った「Never My Love」全米で1位を獲得した曲です。それから50年、ジャニーさんは丁寧に、でも笑いながら言いました。「本当はこれジャニーズの曲なんだよ。ジャニーズが全米1位になっていたかもしれない曲」The Associationで「Never My Love」

 

(ナレーション)蜷川さん、ずっと聞きたくとも聞けなかったあのことについて切り出しました。

 

蜷川幸雄)ジャニーさんはさぁ、タレントの事「YOU」って呼ぶでしょ?あれには自覚的な何かが?(意識してYOUと言ってるんですか)

(ジャニーさん)いや、あれねー全部ね、アメリカではYou must to do .「You」ってのは主語になってるから、つい「YOU」って言っちゃうんですよ。不意にね。いまだにこの年になっても瞬間的に「痛い」って言うとき「アウチ」って言っちゃうんですよ。

蜷川幸雄)ボク、ジャニーさんのところの若いタレントと仕事するとき、ジャニーさん元気か?とか、お前らの名前ちゃんと覚えられてる?って言うと「ジャニーさんYOUって呼ぶから覚えてるか覚えていないかわからない」って

(ジャニーさん)それは大変失礼な話(笑)だけどもYOUしか覚えられない(笑)

蜷川幸雄)でも「YOU」ってのは便利ですね。ある年齢から固有名詞が覚えられなくなるでしょ?

(ジャニーさん)そうです。もう固有名詞が(覚えられない)日本語めんどくさいですね…

蜷川幸雄)今日拝見した舞台に出ていた子の名前を何割覚えていますか?

(ジャニーさん)覚えていないです。自慢じゃないけど覚えてないです

蜷川幸雄)覚えられないよね~

(ジャニーさん)あれは何て子なの?って聞きはするけど、名前は覚えられないです。それはボクの悪いとこ

蜷川幸雄)(「YOUと呼ぶの」)ジャニーさんに合いますよ、そりゃ「YOUは?」って

(ジャニーさん)覚えられないからね。はっきし言って

蜷川幸雄)ボクもね、昔、小劇団にいたときにね、100人ぐらいの人を使うわけですよ。それで全部名前を2日間ぐらいかけて覚えて、名指しで言っていくとみんな喜ぶんですよ。ところがねぇ、最近全然だめで(笑)

 

(ナレーション)数多くのアイドルを世に送り出してきたジャニーさんは、演出家としての仕事も大切にしています。そのうちの一つ、KinKi Kids堂本光一さんが主演するミュージカル『SHOCK』は2000年が初演、一昨年上演が1000回を超えました。インタビューの収録が行われた日、蜷川さんとジャニーさんが観ていた舞台『DREAM BOYS』も2004年にタッキーこと滝沢秀明が主演して以来、KAT-TUN亀梨和也さん、Kis-My-Ft2玉森裕太さんなどが主演を務めてきました。また、Sexy ZoneA.B.C-Zを中心にジャニーズ事務所のアイドルが多数出演するミュージカル『Johnny’s World』も2012年以来再演しています。同じ演出家として蜷川さん、ジャニーさんがどのように主役を決めているのか興味津々です。

 

蜷川幸雄)俳優を選ぶのは、何人か主役に入ってきますよね、どうやって選んでるんですか?普段から見てるんですか?

(ジャニーさん)もうそれは、こちらが(主役になれる人を)作っていかなければならない。作っていくからできるんです。

蜷川幸雄)ほぉ、バックで踊ったりしている中から見てて、アイツならいいかなとか思ってるんですか?

(ジャニーさん)まぁまぁだいたいわかりますよね

蜷川幸雄)わかるんだー

(ジャニーさん)そりゃわかりますよ。鈍感な子もいますからねー

蜷川幸雄)まぁねぇ

(ジャニーさん)でも、鈍感は鈍感でおもしろいところがあるんですよね

蜷川幸雄)そうですよね

(ジャニーさん)いまの若い子はすぐ覚えるけども、僕たちが一番最初に(演劇)をやったときなんか大変でしたよ。まず男が踊るもんじゃないとはっきり言われるしね。だから笑ってもいけないし。郷ひろみでもあおい輝彦でも昔の人間は、男は笑うもんじゃない、3回笑ったらいいとこだって。(昔の男性は)笑うことは知らないですよね。

 

ジャニーさんは、今まで男と女しかいなかった日本の芸能界に「少年」というカテゴリーを作った人物だともいわれています。大学生でジェンダーの研究をしている人は、このあたりの話を講義で聞かれている方も多いかと思います。少年が微笑み、踊り、歌う姿を当たり前のように目にした日本人には、ある種のマッチョイムズの抑圧がない世界観をすんなりと受容してきたのかもしれません。日本でのフィギュアスケート人気の根底の1つに、少年が「舞う」ことに対する抵抗の無さがあるからかもしれない、これにもジャニーズが関係しているのではないかと論じられることもあります。ジャニーズっておもしろいなぁ(しみじみ)

 

②へつづく

下積み時代が長かったジャニーズ Kis-My-Ft2編

 

KAT-TUN 上田くんに引き続き、今回はKis-My-Ft2の玉森くんのデビューまでの道

(宮田くんや、河合くん、戸塚くんの話も少し入っています)

 

 

最近では『グランメゾン★東京』での平古祥平役での活躍が記憶に新しい玉森くんですが、デビュー年に主演した『美男ですね』では尋常ではないプレッシャーを感じお風呂場や陰で吐いていたり、その後も『いきなり!黄金伝説』で玉ねぎで1ヶ月1万円生活をやらされたりと(優勝するあたりがジャニーズなんですが)、デビュー後もしんどい思いをしていたよね?と勝手に思ったりしています。『美男ですね』のときは、けっこういろいろ言われてて、ファンの人もしんどい時期だったと思うので今回の『グランメゾン★東京』で「祥平ってジャニーズだったの?俳優かと思っていた」など言われていたときは、ファンの方は感慨もひとしおだったのではないでしょうか?

 

今回はそんな玉森くんのデビューまでの軌跡を書いていこうかと思います。ファンの方の方がよく知っているとは百も承知なんですが、Wikipedia見たらデビュー前のことなどは書かれていなかったので、書きます。

 

 

玉森くん初めての挫折

玉森くんは2002年12月1日にジャニーズ事務所へ入所し、2004年にJ.J.Expressで初めてグループを組むことになります。J.J.Express には、現Hey! Say! JUMPの伊野尾くん、中島裕翔くん、有岡くんが所属しており、玉森くんは新メンバーとして加入するのですが、、、、後に振付師さんから「外れろ」っと言われてしまいます。

(玉森くん)振付師さんに、「外れろ」って言われ、俺は「へ!?」ってなって。すごく悔しかったし、ほかのJr.に「あれ?なんであっちいかないの?集まってるよ」って言われ、「俺、もうちがうんだよ」って言うのもイヤだったし、恥ずかしくて

引用:MYOJO 2013年2月号

 

玉森くんが外れてしばらくして、現Hey! Say! JUMPの髙木くん、A.B.C-Zの橋本くん、Snow Manの深澤くんが新メンバーとして加入するのですが、、、、そもそもJ.J.Expressはメンバーの入れ替わりが激しくて、雑誌みても誰が正式メンバーか分からないこともあったり

(有岡くん)このJ.J.Expressってのが結構大変なグループでね

(髙木くん)あ~も~、ちょーー怒られたもん!!

(有岡くん)めっちゃ怒られたよね笑

(髙木くん)思い出マジでみんな多分、怒られたことが一番だよ!!!ほんと怒られたわー

(有岡くん)ねぇ、、、メンバーもすごいなんかね流動的で、まぁさっき言ってたけどHey! Say! JUMPで言うと。有岡、髙木、伊野尾、中島かな?んで、あとはねぇ、いたのは、、A.B.C-Zで言うとはっしーでしょ?で、Kis-My-Ft2の玉森もいたでしょ?

(髙木くん)俺とタマとはかぶってないもんね

(有岡くん)そうなんだよね、ちょうど入れ替わりとかなんだよね。いや大変だったのよ、だからほんといつ自分がこう「弾かれるんじゃべぇか」っていう、、、びくびくしながら、、、

(髙木くん)いやほんとに大変なグループだったし、、、

(有岡くん)なんかヘマすると、もう次の曲んとき、俺いねーんじゃねえかって思ってたもん

(髙木くん)そうだね、誰かだけ歌ってるときとかもあったもんね

(有岡くん)あったあった

引用:JUMP da ベイベー! 2016年6月

 

J.J.ExpressはもともとKis-My-Ft.Kis-My-Ft2の前身グループ)の弟分としてグループができるのですが、いつの間にかYa-Ya-yahの弟分と表記が変わり、Ya-Ya-yahJ.J.Expressのメンバーがジャニーさんとハワイへ行くようになり、この流れはいずれグループが合体するのかとオタクを恐怖に陥れ、、、昔はジャニーさんとハワイ・ラスベガスへ行った=デビュー候補って感じだったので、一緒に行ったジュニアのリスト作ってたんですが(そんなことせず真面目に働けよ自分)

 

 

ジャニーズって世間では「努力もせず顔だけ」みたいなイメージも一部にはあるようですが、実際めちゃくちゃ厳しいし、サンチェさん(93年からジャニーズ専属の振付師)の指導を乗り越えるって顔だけじゃ無理だと思うんですよね(玉森くんと宮田くんはサンチェさんに過去一番怒られた人物だと言っています。怒られすぎて、ふたりでいちご狩りに行って、互いを励ましたりします)

 

J.J.Expressを外され、最初の挫折を経験した玉森くんは

(玉森くん)やっぱ、甘えてたなって思います。グループに入ってるって、ちょっとした安心感みたいなのがあって。レッスンはしっかりやってたけど、ダンスも歌も、本当に頑張ったかって言われたら、もっとがんばれたんじゃないかと思いますね。

引用:MYOJO 2013年2月号

 

A.B.C.Jr.からKis-My-Ft2

玉森くんは2004年9月にA.B.C.の弟分ユニットA.B.C.Jr.二期メンバー(二階堂くん、千賀くん、宮田くん、玉森くん)に選ばれます。その後、2005年7月にKis-My-Ft.に加入するのですが、、、、

(玉森くん)A.B.C.Jr.で二階堂、千賀、宮田とはいっしょだったんで平気だったけど、あとの3人(正確には4人(1名脱退するので)とはまったくからんだことなかったし、年上だし。あっちも、俺らのこと知らないから、ちょっとよそよそしい感じがあって

引用:MYOJO 2013年2月号

 

結成1カ月後のD誌では、史上最強のグループのぎこちなさを発揮します。

(横尾くん)このたび、小さいこ(A.B.C.Jr.)と大きいこ(キスマイ)が合体した、V6さんのようなユニットになりましたが、玉森さん、どうですか。

(玉森くん)えっ!?あっ踊りを頑張りたいです。

 引用:Duet 2005年10月号

この後も小さいこグループがひたすら敬語を使う座談会が続くのですが笑

その後はグループの壁をなくすために北山くんと藤ヶ谷くんが中心になって敬語を使ったらダメゲームを何回も何回もやってくれたそうで、少しずつ仲良くなります。

この号では別ページでフレッシュジュニアにHey! Say! JUMPの山田くんが紹介されています

 

宮田くんのキスマイ加入へのはなしを少し

A.B.C.Jr.がそのままKis-My-Ft.に入ったように思われるかもしれませんが、Mの候補は何人かいたようで、最終的に宮田くんが選ばれることになります。宮田くんも候補が何人かいたことを知っていて、キスマイ加入時は劣等感を抱いていたようです。

(宮田くん)年上の3人はもちろん、二階堂も千賀もちっちゃいころから前で踊ってた。タマだって、J.J.Expressにいた。俺だけ、何者でもない。すっげー劣等感があったんですよ。俺がいちばんダメだなって。もう、がむしゃらに練習するしかなくて。

引用:MYOJO 2013年3月号

 

メンバーで宮田くんだけバック転が出来ない状況を変えようとして大事件が

(宮田くん)俺だけバック転ができなくて、残って練習してたんです。3、4時間。もう少しでできそうで。「いけっ!」っと思って跳んだら。気づくと周りに人が集まって、俺をめっちゃ見てた。脳震盪を起こしていたんですよね。

脳震盪を起こし、腕を脱臼してしまった宮田くんに対し、振付師さんが「どうだ?(大丈夫か)」と声をかけたとき

(宮田くん)「めっちゃ悔しいです。みんなできるのに、俺だけバック転できなくて」って泣いたんです。なんか熱血ドラマみたいに

引用:MYOJO 2013年3月号

 

この事故はかなり重傷だったようで、医師から電車に乗って人と接触するだけでも危ないと言われ3カ月間ほど活動が出来なくなり、レッスンの見学もできない状態で焦りばかりがつのる日々を過ごします。その時、振付師さんは

(宮田くん)めっちゃあせりましたね。ちょうど『DREAM BOYS』が始まったんですけど、やっと治って、「もう大丈夫です」ってマネージャーさんに連絡したのに、全然呼ばれないわけです。「まさか俺、逝ったか?クビになったか?」って思って。だけど。振付師さんが、俺の位置を空けてくれてて

引用:MYOJO 2013年3月号

 

ジャニーズって練習を休むと、位置を下げられたりするんですよね。嵐の櫻井くんも、テスト勉強で休んだら位置が下がったと言ってましたし、風間くんは受験勉強のため休んでいて、復帰したら今まで一緒に活動していた仲間(生田くんとか)とは違うカテゴリーに下げられ、楽屋も一緒ではなくなったりと、そこら辺は公平なんですよね。ほんと宮田くん元気でよかった。

 

Kis-My-Ft2より先にHey! Say! JUMPがデビューする

2007年に自分たちよりも入所が遅いメンバーが所属するHey! Say! JUMPがデビューします。

(玉森くん)俺らより、全然後に入ってきたメンバーもいたんですよ。しかも、デビューコンサートのバックにつくように俺らは言われて。ホント、悔しくて。それ、スイッチが入ったきっかけていうか。絶対、こいつらを越えてやろうって思ったし、絶対デビューして見返そうって。

引用:MYOJO 2013年2月号

 

ここでキスマイと苦労を共にした A.B.C-Z 河合くんの話も少し。Hey! Say! JUMPのデビューを知った時は、キスマイとA.B.Cは一緒に舞台に出演していました。

(河合くん)デビューを知った日、キスマイと舞台をやってて。楽屋で、キスマイとA.B.C、すっげー静かだった。もう平成生まれしかデビューできない。俺たち、置いていかれたんだって感じで。

引用:MYOJO 2013年7月号

Hey! Say! JUMPのデビュードームコンサートに一緒に出ることになったときは

(河合くん)つらかったですね。ずーっと、舞台袖で、藤ヶ谷とふざけてました。そうしないと、その場にいるのがつらすぎたから。

引用:MYOJO 2013年7月号

 

A.B.C-ZHey! Say! JUMPのデビューの次に、ずっと一緒にやってきたKis-My-Ft2のデビューも見送るのですが、ここが一番しんどかったのかな?と(キスマイと同時デビューって噂あったもんね)

 

Kis-My-Ft2のデビューが決まった次の日のコンサートに、河合くんが見学に行くのですが、その時のMCで河合くん「デビューおめでとう」って言えなかったんですよね。(とっつーはMCで話しができなかったり)そして、なんでずっと一緒に頑張ってきた仲間のデビューを祝えないんだって、家帰ってお風呂で泣くんですよね、、、。その後、藤ヶ谷くんに「おめでとうって言わなくてごめん。デビューおめでとう」ってメールするんですが。

 

A.B.C-Zの戸塚くんは、もうジャニーズ辞めようと決心して、坊主というかスキンヘッドにして、ジャニーさんのところに言いに行ったりします。(2011年のジャニーズ事件簿1位だよ)結局、ジャニーさんに丸め込められるのですが、、、、とっつーが坊主になったのは『PLAYZONE2011』の稽古中だったんですが、その後みんなで舞台に立ち、A.B.C-Zはめっちゃくちゃ輝きます。DVD収録の前日に河合くんが手術するぐらいの骨折をして、急遽4人で踊らないといけなくなるのですが、河合くんの穴を埋めるため鬼気迫るパフォーマンスを見せるんですよね。この回の『Guys PLAYZONE』はほんと凄かったし、五関さまのダンスが突き抜け過ぎて。河合くんが骨折したときは、たまたま観に来ていたマッチさんが急遽舞台にたって代わりに歌ってくれたり、いろいろありました。DVDのメイキング映像では翼くんが「郁人のぶんまで」って言っているところが入っています。『Guys PLAYZONE』みんな観てほしい、、、

 

 

 話は戻りまして、先にデビューしていったグループへの思い

Hey! Say! JUMPに対して今はどう思う?玉森くん

(玉森くん)今は別に何とも思わないですよ。「あの日のことを忘れないからな」とも思わないし(笑)。俺らの方が遅いですけど、同じラインにたっていっしょに戦う仲間でもあるし。

Hey! Say! JUMP越えたなって瞬間はあった?

(玉森くん)超えたな…。もう、そういう意識ないんですよね。デビュー前って、本当ちっちゃくて。グループの中でいちばんになってやろうとか、同世代に勝とうとか。それって、小さいことだったんですよ。デビューすると、いろんな先輩がいて、その中で自分には何ができるのかなって考えるようになったし。だから、何て言うか、全員がライバルというか自分自身がライバルというか。

引用:MYOJO 2013年2月号

 

Hey! Say! JUMPに対して今はどう思う?河合くん

(河合くん)ずっとHey! Say! JUMPのメンバーは、俺たちのこと、バカにしてんのかもしんないって思って。あんな長い期間、日の目を浴びないのにマジメにやって、みたいな…。でも最近、『王様のブランチ』に出させてもらったとき、CM中に谷原さんに、「A.B.C.-Zのこと、僕は前から知ってたんだよ。ドラマで共演した中島裕翔くんが「A.B.C-Zすごいんですって、いつも熱く語るから」って言われて。そこでCMが空けたんで、それ以上は話せなかったんですけど。いつかHey! Say! JUMPと、あのころの話ができたらって思いますね。

引用:MYOJO 2013年7月号

 

最後に、玉森くんは吐くほどのプレッシャーや様々な不安を抱えつつも、なぜ辞めずにがんばれたのか?

(玉森くん)逆にやめたらどうなるのかなって。やめたらショボいでしょ?うん。超えていかなきゃいけない壁であり、試練なんだって。俺ら、下積みが長いぶん、いろんな人たちのデビューを見てきたんです。やっぱ誰もが、努力してデビューっていうものを手に入れてる。KAT-TUNのデビューとか、後ろで踊って俺ら見てたんで。俺が言うのもなんですけど、「がんばってるな」って。バックが長いから、見えた世界があるんです。壁を越えてきた先輩たちが大勢いるのに、俺があきらめたらショボイでしょ?

引用:MYOJO 2013年2月号

 

KAT-TUN!!!!!

彼らはずっと背中を見てきました。海賊帆ではセリフもいただいて、すごく活躍しています。ってかこのコンサート、めちゃくちゃお金かかってると思うんですよね。この時代にやってたSUMMARYもたしか製作費15億ぐらいかけたとかニュースになっていたりしました。2004年から2006年って舞台もコンサートもめちゃくちゃお金かけていた気がします。今も同じぐらいかけてるのかもしれないですが、、、観たことない人は是非

 

KAT-TUN Live 海賊帆 [DVD]

KAT-TUN Live 海賊帆 [DVD]

  • アーティスト:KAT-TUN
  • 発売日: 2005/05/03
  • メディア: DVD
 

 

 

彼らはアイドルなので、苦労や涙を見せないので実際、裏で何が起きているのか分からいことだらけなんですし、おい事務所って思うことしかないんですが、まぁファンはひたすら応援するしかないですね。応援するぞ!!っと思って、ふぉ~ゆ~のISLAND TVの配信みたら、ふぉ~ゆ~がメンバー同士でずっとキスしててびっくりしましたが笑

 

長くなりましたが、玉森くんと、宮田くん、河合くん、戸塚くんのデビューまでのエピソードでした。